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すぐわかる!ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンとは|その生涯と作品たち

ベートーヴェン
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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、時を越えて多くの人に長年愛される作品を多数作曲しました。

「第九」や「運命」といった交響曲、「悲愴」や「月光」に代表されるピアノ・ソナタ等々。

ベートーヴェンの音楽は、あなたにも何らかの影響を与えているはず。

この記事ではベートーヴェンの生涯に焦点を当て、彼の音楽の魅力を探ってみたいと思います。

ベートヴェンの生涯を記すに当たり、特に次の2冊の書籍を参考にさせていただきました。

  • ベートーヴェンの生涯 青木やよひ著 平凡社
  • クラシック音楽全史 松田亜有子著 ダイヤモンド社

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの育った環境と時代

ベートーヴェン・ハウス【ドイツ・ボン】ベートーヴェン・ハウス【ドイツ・ボン】

ベートーヴェンが生まれた18世紀当時のボンは、現在のドイツ西側に位置し、33万人ほどの人々が暮らしている街でした。第2次世界大戦後(1949年~1990年)は、西ドイツの首都として機能していました。

ベートーヴェンが生きた神聖ローマ帝国時代のドイツは、300程の大小の領邦国家に分かれていました。そのなかで人口1万人弱のボンには、ケルン大司教(選帝侯の資格を持つ貴族)が領主として居所を構えていました。

選帝侯は高い教養を身につけており、音楽や演劇なども盛んだったようです。

当時の音楽家は現在と違い、民衆に音楽を提供して生業とするというスタイルではありませんでした。宮廷付きの楽団に所属するなどして生計を立てていたのです。

ベートーヴェンとその家族も同様でした。但し、ベートーヴェンは後に民衆を相手に音楽を提供する、現在の音楽家のスタイルを構築することになりますが…

ボンにはもうひとつ特徴がありました。それは読書クラブの存在です。

ベートーヴェンの所属していた読書クラブは、家柄などにとらわれない交流が行なわれていたようです。

青年期のベートーヴェンは読書クラブで読書や議論を交わすことで、教養を深めていたと思われます。それは、小学校にそれほど通うことができなかった分を補うことになったでしょう。

ベートーヴェンの誕生と名前の由来、尊敬する祖父について

第九や運命で知られるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンですが、彼の祖父が名付け親であり、祖父と同名です。

祖父のルートヴィヒは、現在のベルギー・メヘレン出身です。音楽家の家に生まれたわけではありませんでしたが、歌が上手く、少年聖歌隊にも所属していました。その後は、教会のオルガニストやカペルマイスター(合唱団などの指導者の意)の代役を務めたりしていました。

そんな祖父ルートヴィヒに転機が訪れます。

1733年(享保18年)、ケルン選帝侯クレメンス・アウグストにより、好待遇でボンに迎えられたのです。
さらに…
1761年(宝暦11年)、選帝侯がマクシミリアン・フリートリヒに代わり、宮廷楽長に選ばれています。

孫のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの誕生は、1770年(明和7年)12月16日であると伝えられています。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
ベートーヴェンの生家は現在、ベートーヴェン・ハウスとして博物館になっているんだ。

ベートーヴェンが3歳の頃、祖父ルートヴィヒは脳卒中により他界します。それにより、ベートーヴェン家の家系は苦しくなってしまいました。祖父ルートヴィヒが収入の柱だったためです。

ベートーヴェンは生涯祖父を尊敬していました。死ぬまで祖父の肖像画を自室に掛けていたことからも、祖父に対する畏敬の念が感じられます。

幼いベートーヴェンに音楽を指導した人々

古楽器ピアノ

ベートーヴェンが音楽を習い始めたのは、1776年(安永5年)6歳くらいからです。

当初、ベートーヴェンを指導したのは父ヨハンでした。父ヨハンは、声楽、ピアノ、ヴァイオリンの教育を受けていて、宮廷音楽家の資格も持っていました。

音楽を習い始めてから2年後の1778年(安永7年)には、父の弟子とともにケルンで公開演奏会を行なっています。しかし…公開演奏会は失敗に終わります。さらには父により、年齢を「6歳」と詐称されていました。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
父ヨハンは息子を「神童」として印象付けたかったのかもしれない。
ベートーヴェンに対する音楽の指導は、アルコールに溺れた粗暴なものだったみたいだよ。

それ以降ベートーヴェンの音楽指導は、ヴァイオリン奏者フランツ・ロヴァンティーニや父ヨハンの同僚・音楽仲間に代わります。幼いベートーヴェンは10歳を前にして、ピアノや弦楽器、ホルンまでも習得します。

但し、学校の勉強は苦手だったようです。だからといって、ベートーヴェンの評価を何ら損なうことにはなりません。

少年時代のベートーヴェンが興味を持ったのはパイプオルガンでした。自発的に近くの修道院に行き、修道士にパイプオルガンの指導を依頼したほどです。

その上達は目覚ましく、早朝のミサでパイプオルガンの代奏をするほどまでになりました。

少年時代のベートーヴェンは、夜遅くまで練習を積んでいたようです。

作曲家ベートーヴェンへの歩み

作曲家ベートーヴェンのイメージ

器楽の演奏については指導者に恵まれていたベートーヴェンでしたが、作曲については充分ではありませんでした。ベートーヴェン自身は作曲に興味を持っていました。

そのようなとき、ベートーヴェンの周囲の状況が変わりはじめます。

1781年(安永10年・天明元年)選帝侯付オルガン奏者としてクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェがボンに赴任してきたのです。ネーフェは、歌曲及びドイツの民衆的オペラとも言うべき「ジングシュピール」の作曲で評価を得ている人物でした。

このネーフェが、10歳のベートーヴェンの師となったのです。

自己流とはいえ、すでに即興曲などを作曲・演奏していたベートーヴェンは、当初ネーフェの指導に反発したようです。そのようなベートーヴェンに対して、ネーフェは自身が尊敬するバッハの「平均率 平均律クラヴィーア曲集」を教材に指導します。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
「平均律クラヴィーア曲集」を間違って「平均率クラヴィーア曲集」と記載するという間違いをしていました。すみません。
通りすがり様ご指摘ありがとうございます!
訂正いたします。

その後ベートーヴェンは、次第にネーフェを信頼するようになっていきます。

ネーフェも、ベートーヴェンの鍵盤演奏の腕と初見での読譜力に対する能力を認めていました。まだ幼いながらもネーフェとの出会いにより、後の大作曲家ベートーヴェンに通じる道が開けたのでした。

それともう1点、1788年(天明8年)、ボンでは国立歌劇場の設立に向けて動き始めます。

ベートーヴェンは国立歌劇場のオーケストラのヴィオラ奏者として採用されます。さらには無給の時期はありながらも、ベートーヴェンは宮廷のオルガン代理奏者も務めていました。

この歌劇場と宮廷では、J.S.バッハやヘンデル、ハイドン、モーツァルトといった音楽家の楽曲も演奏されていたはずです。ベートーヴェンにとっては器楽用法を含めた音楽の理解を深める上で、格好の学びの場だったことでしょう。

これらも大音楽家ベートーヴェンを育む要素となったに違いありません。

ベートーヴェンの家族や友人、信頼できる人々

幼少期から青年期にかけてのベートーヴェンの身近な人々についてまとめてみます。

まずは、ベートーヴェンの名付け親であり、同姓同名の祖父の存在は大きかったと考えられます。ベートーヴェンが3歳の頃(1773年)に脳卒中で他界しますが、それまでは宮廷楽長であったこともあり、一家の経済的な柱でした。

父ヨーハンについては、アルコールに依存していたことが伝えられています。偉大なる父(ベートーヴェンの祖父)と音楽に天賦の才を持つ息子の間で、自身の自尊心を保つことが難しかったのかもしれません。

母マリア・マグダレーナは、経済的に困窮する家計を切り盛りし、その人柄は謙虚で親切な女性だったようです。ベートーヴェンにとっては信頼できる大人であり、彼の手紙からは母であり友人のような関係性も感じられるとのこと。

1781年の冬、ベートーヴェン11歳のとき、母子はオランダへ船旅します。その際、凍える息子の足を母がスカートで覆い暖めたのでした。ベートーヴェンにとっては、母との数少ない貴重な想い出となったことでしょう。

ベートーヴェンには、ブロイニング夫人という信頼できる大人の女性の存在がありました。ブロイニング夫人は若くして夫を亡くした未亡人で、ベートーヴェンと同世代の子供が3人いました。

ブロイニング夫人はベートーヴェンに対して自分の子供のように接してくれた人物で、食事マナーや服装などの注意もしてくれるほどでした。ベートーヴェンも彼女の言うことには素直に従ったようです。

さらに、ブロイニング家には書籍が沢山ありました。ベートーヴェンはそこで文学や哲学に触れていた可能性があります。

その他のベートーヴェンの人間関係はどうだったのでしょうか?

まずは上述のブロイニング家の3人の子供たち。

  • 長女エレオノーレ:ベートーヴェンの良き友人。初恋の人かも?
  • 次男シュテファン:ともにヴァイオリンを学ぶ仲。
  • 三男ローレンツ:エレオノーレと共にベートーヴェンからピアノを教わる。

フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲーラーは、ベートーヴェンにブロイニング家を紹介した人物で、ベートーヴェンとの回想を出版しました。

フェルディナンド・フォン・ワルトシュタイン伯爵はベートーヴェンの良き理解者であり、後に「ピアノ・ソナタ第21番」を献呈された人物です。

ヴィルヘルミーネ・ヴェスターホルトはベートーヴェンのピアノの教え子で、初恋の人だった可能性のある人物です。

ボン時代のベートーヴェンには、よき友人や理解者がいてくれたようですね。

1787年のウィーン旅行

オーストリア・ウィーンオーストリア・ウィーン

1787年(天明7年)、ベートーヴェンはウィーン旅行をしています。

母親の病状悪化により短期間でボンへ帰ることになりましたが、その際にモーツァルトと会ったようです。

ベートーヴェンはモーツァルトを非常に尊敬していました。

しかしベートーヴェンは、その出会いについての記録を残していないようです。もしかすると、思い描いたようなすてきな出会いとはならなかったのかもしれませんね。

ベートーヴェンの母マリア・マグダレーナは、40歳で亡くなっています。

ベートーヴェン、本格的にウィーンへ

1792年(寛政4年)11月、20代になっていたベートーヴェンは、ウィーンのハイドンの指導を受けるためにボンを旅立ちます。

出発はフランス軍が攻め寄せてくる最中、強行されました。

そしてそれ以降、ベートーヴェンがボンに戻ることはありませんでした。

現在は古典派と呼ばれる音楽家のハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンは生きた時代が重なっていて、出会いもありました。
後世の私たちからすると奇跡のような出来事に感じます。

ベートーヴェン、ウィーンにて本格始動!

ウィーンの街並みウィーンの街並み

ベートーヴェンがウィーンに着いたのは1792年(寛政4年)11月で、モーツァルトが亡くなった翌年でした。このウィーン滞在は短期的な旅行ではなく、生活の舞台をボンからウィーンへと変えたのでした。

当時のウィーンはハプスブルク家直轄の大都市で、政治や外交の中心地でした。そのため様々な言語が使われ、べートーヴェンの見慣れない服装の人で賑わっていました。

ベートーヴェンはその後何度も引越しを繰り返しますが、ウィーンでの最初の住まいはとある建物の屋根裏部屋でした。その場所は、アルザー街(シュトラッセ)にありました。

ウィーンに移り住んで間もないベートーヴェンの才能にいち早く気付いた人物がいました。それがカール・リヒノフスキー侯爵とその夫人でした。

カール・リヒノフスキー侯爵夫妻は、ベートーヴェンと同じ建物に住んでいたようです。

ベートーヴェンはカール・リヒノフスキー侯爵夫妻宅に引っ越すことになりました。(1795年末までの約3年間同居)リヒノフスキー侯爵宅にはお抱えの演奏家たちがいて、サロン演奏会が開かれていました。

ベートーヴェンにとってサロン演奏会は自分の才能を披露する格好の場であり、実際その通りになりました。

次第にベートーヴェンのピアノの腕前は、他のサロンでも評判になります。ベートーヴェンはウィーンの社交界でその存在感を示すことに成功したのでした。

名ピアニスト、ベートーヴェン

ピアニストのイメージ

ウィーンに到着して間もない頃のベートーヴェンは、作曲家としての実績はまだありませんでした。それよりもピアニストとしての知名度が上がっていったのです。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
当時、作曲家としての成功は、イタリア・オペラでの成功が必須だったんだ!

有名なピアニストは、上流階級の人々にとってはその子息のピアノ教師としての需要が高かったでしょう。ピアノ・ソナタを作曲すれば、その楽譜を購入する人もいました。

さらに1795年(寛政7年)には、ウィーンの音楽協会が主催する慈善演奏会でベートーヴェンはピアニストデビューを果たしています。もはや私的なサロンの人気者としてではなく、公にピアニストとしての地位を手に入れたのでした。

これらを考慮すると、ベートーヴェンの収入面での心配は無くなっていたと思われます。

しかし彼の目標は、ピアニストとして成功することではなく、作曲家になることでした。

ベートーヴェン、ハイドンに師事

1792年(寛政4年)12月、ベートーヴェンは作曲家になるべく動き始めます。

当時、モーツァルトとともにその名を知られていた大作曲家ハイドンの弟子になるため、その門を叩いたのでした。

この頃のハイドンは、すでに宮廷付きの音楽家ではありませんでした。彼の心はイギリス・ロンドンに向いていました。そのためベートーヴェンは、ハイドンから熱心な指導を受けることは無かったようです。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
というよりも、すでに大作曲家となっていたハイドンにしてみれば、入門したての弟子に付きっきりで指導することの方が不自然だったと思うよ。
ベートーヴェンもその辺のことは心得ていたようで、厳格対位法などは他の音楽家から指導を受けていたんだ。

ハイドンとベートーヴェンの師弟関係は1年を少し超えるくらいの期間だけでした。そうはいっても、ハイドンはベートーヴェンがその後音楽家として成功することを感じ取っていたようです。

さらにベートーヴェンにとって重要だったのは、ヨーロッパ音楽界の頂点、宮廷楽長アントーニオ・サリエリとの出会いでした。

サリエリといえば、映画「アマデウス」の主人公としてモーツァルトと対立した人物として描かれた人物です。

ベートーヴェンはサリエリからイタリア語の声楽曲やオペラについて学ぶだけでなく、良好な関係を続けました。

では、ハイドンについてはどうだったのでしょうか?

ベートーヴェンは自身の作曲した自信作を、ハイドンから人前でけなされる(低い評価を受ける)経験をしています。ハイドンに悪意があったのかどうかは不明ですが、少なくともベートーヴェンにとっては喜ばしいことではなかったのです。表面上は対立しているようには見えなかったようですが…

大作曲家の地位を確立していたハイドンですから、弟子の作曲した作品に悪意を持って低い評価を与えるとは考えにくいです。

もしかするとベートーヴェンのある革新的な音楽に、ハイドンがついていけなかっただけのことなのではないでしょうか。

後世の我々にとっては同じ「古典派」に分類されるハイドンとベートーヴェンですが、その区分の中でも時代の変化はあったのです。

ベートーヴェンの難聴とハイリゲンシュタットの遺書

ベートーヴェンが耳の不調を感じるようになったのは、27歳頃のことでした。

初めのうちは音楽への支障は無かったようですが、人とのコミュニケーションで不都合が生じるようになりました。会話が聞き取りにくくなったのです。

複数の医師に診てもらうも改善はみられませんでした。

この状況は音楽家として勢いに乗ろうとしていたベートーヴェンにとって、さぞかし不安で辛かったことでしょう。

そして周囲の人に難聴を悟られまいと隠すようになったのでした。当然のことながら、人とのコミュニケーションは避けるようになっていきます。

声をかけられても返事ができない、人との交わりを避けるといった行為は、ベートーヴェンの難聴を知らない人にとっては失礼であり、不愛想と誤解されることにつながったに違いありません。

(その後、ベートーヴェンの聴力は完全に失われることになります。)

ベートーヴェンが美しい名曲ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」を作曲したのは、難聴が始まった頃のことでした。

そのような状況のもと、1802年(享和2年)にベートーヴェンは「ハイリゲンシュタットの遺書」を書きます。この遺書はベートーヴェンが弟と甥に書いたもので、彼の生前には発見されませんでした。

「ハイリゲンシュタットの遺書」に書かれていたのは、「難聴に対する辛い心境」と「音楽家としての情熱」でした。

ベートーヴェンの1800年代初頭における作曲活動

ベートーヴェン

1802年(享和2年)、ベートーヴェンが難聴に苦しみ「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いたことについては上述しました。しかし、当時のベートーヴェンの姿からその苦悩を察することは難しかったことでしょう。

その理由のひとつとして、ベートーヴェンの作曲に対する熱意が挙げられます。

この時点でベートーヴェンは作曲家として成功し、楽譜の出版収入で経済的にも問題はありませんでした。

1802年(享和2年)~1803年(享和3年)に作曲および制作に取り掛かっていた作品をみてみましょう。

1802年
(享和2年)
●ヴァイオリン・ソナタ(6~8番)作曲。
●交響曲第2番作曲。
●ピアノ・ソナタ(第16~18番/テンペスト含む)作曲。
●ピアノ変奏曲(エロイカ変奏曲)作曲。
1803年
(享和3年)
ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」作曲。
●交響曲第3番「英雄」に着手・没頭。
1804年
(享和4年・文化元年)
交響曲第3番「英雄」完成。
ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」作曲。
●ピアノ・ソナタ第22番作曲。
1805年
(文化2年)
ピアノ・ソナタ第23番「熱情」作曲。
歌劇「フィデリオ」(第1稿)完成。
1806年
(文化3年)
●ピアノ協奏曲第4番作曲。
●弦楽四重奏曲(第7~9番)作曲。
交響曲第4番作曲。
●ヴァイオリン協奏曲作曲。
歌劇「フィデリオ」(第2稿)完成。

エロイカ変奏曲はその主題が交響曲第3番「英雄」でも使用されていて、この分野における最高傑作とされる作品です。
1802年(享和2年)には、すでに交響曲第3番「英雄」の構想が始まっていたことを物語っています。

ベートーヴェンはバッハなどの先人の作品を研究しつつ、自らの作品を作り上げていったのです。

1803年(享和3年)、ベートーヴェンは弟と共にアン・デア・ウィーン劇場内の2階に引越します。この引越には、オペラを制作・提供するという条件が付されていました。ベートーヴェンにこのような好条件の依頼が舞い込むことになったのは、1801年(寛政12年)に作曲したバレエ音楽「プロメテウスの創造物」の成功が関係していると推察されます。

1805年(文化2年)、ベートーヴェンにとって唯一のオペラ作品である「フィデリオ」(レオノーレ)の作曲に取り掛かります。
すでに二人の人物が同じ原作でオペラ化していましたが、それを知った上での制作でした。

「フィデリオ」と「レオノーレ」についての経緯は『レコードで聴くベートーヴェン 歌劇「フィデリオ」序曲&レオノーレ序曲 第3番|カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団』をご参照ください。

このような視点でみると、当時の人々だけでなく現代の私たちにとっても、ベートーヴェンが難聴に苦しんでいる姿は思い浮かべにくいのではないでしょうか。

しかし、ベートーヴェンの難聴が完治することはありませんでした。

1800年代初頭のヨーロッパ情勢について

ナポレオン像ナポレオン像

1804年(享和4年・文化元年)、ナポレオンのフランス皇帝即位はヨーロッパに大きな影響を与えます。

ナポレオンの手はオーストリアにもおよび、危機を感じた貴族たちは国外に去っていきました。

このときのフランス軍は、ウィーンに残された平民に対して危害を加えなかったようです。しかし次の2つの要因が大きな負担となり、ウィーンでは物価の高騰や食料不足に陥っていました。

  1. フランス軍への食糧の供給や軍事費の増大。
  2. 敗戦による賠償金の支払い。

1806年(文化3年)、プレスブルク条約により、皇帝フランツ2世は神聖ローマ帝国皇帝の地位を失い、皇帝としての威信はオーストリアのみに限定されることになりました。神聖ローマ帝国皇帝は解体されました。

この出来事によりオーストリア国民のフランスに対する反感は増大します。

それだけではありませんでした。

1809年(文化6年)の春、オーストリアはバイエルン地方に軍隊を送り、ナポレオンによる報復を受けます。降伏勧告に応じなかったため、ウィーンは砲撃を浴びたのです。

ベートーヴェンは、そのときウィーンに残っていました。弟の家の地下室に避難し、砲撃から身を守ったのです。

砲撃の翌日、オーストリア軍はフランスに降伏しますが、ウィーンは占領されてしまいます。

これにより食糧不足による暴動が発生し物価は高騰、軍税までも徴収されることになり、ウィーンに残された人々は困窮を余儀なくされてしまいます。

1809年(文化6年)10月14日にフランスとの平和条約が締結され、徐々に状況は改善されることになりました。

ベートーヴェンは情勢不安の真っただ中のウィーンに残り、作曲を続けていたのですから驚きを感じずにはいられません。

ベートーヴェンの弟子達

ピアノ教則本イメージピアノ教則本イメージ

ベートーヴェンは人に教えることをあまり好まなかったとも言われていますが、それでも富裕層の子弟にピアノを教えるなどはしていました。そういったレッスンはベートーヴェンにとっては安定した収入の確保にもつながっていたはずです。

そのような教え子ではなく、師弟関係にあった人たちはどのような人物だったのでしょうか。二人をピックアップして紹介します。

カール・ツェルニー

ウィーンの音楽一家に生まれたツェルニー。幼い頃から父より音楽教育を受け、3歳からピアノを弾き、7歳の頃には作曲をしたという「神童」です。

10歳にしてベートーヴェンの弟子となります。ベートーヴェンの他、ヨハン・ネポムク・フンメルやムツィオ・クレメンティからも教えを受けています。

ツェルニーは暗譜能力が非常に高く、ベートーヴェンのピアノ曲は全て楽譜無しで演奏できたそうです。

カール・ツェルニーの最大の功績のひとつは、現在も使われ続けている「ピアノ教則本」を書いたことでしょう。

ツェルニー自身も優れたピアノ教師でした。弟子にはフランツ・リストがいます。

フェルディナント・リース

カール・ツェルニーより7歳年上のフェルディナント・リースは、ベートーヴェンに非常に可愛がられた弟子でした。

フェルディナントの父フランツが、ベートーヴェンがボンで生活していた頃の恩人だったからです。

それだけではありません。ベートーヴェンがウィーンでの生活をはじめて間もない頃、ベートーヴェンの父ヨハンが他界した際にも、弟たちを援助してくれた大恩人だったのです。

ベートーヴェンは大恩人の息子であるフェルディナントにピアノを教えるだけでなく、父が子にするように面倒をみたそうです。

その後、作曲家や指揮者として成功するリースですが、ベートーヴェン作品の普及にも尽力しています。

リースはベートーヴェンが亡くなた約10年後、フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラーと共に回想録「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する覚書」を執筆・出版しました。

ピアニスト マリー・ビゴーにみるベートーヴェンのモラル感

マリー・ビゴーはフランス系の女性ピアニストです。

1804年(享和4年・文化元年)にウィーンに来てまもなく、夫と共にベートーヴェンと親しくなりました。

ある日のこと、ベートーヴェンが雨に濡れた楽譜をマリーに差し出します。思考錯誤の跡が残るピアノ・ソナタ第23番「熱情」の楽譜でした。当然、インクはにじみ、紙はヨレていたことでしょう。

そのような状態の楽譜をマリーは見事に弾きこなしました。ベートーヴェンは驚きと共に、自分の思い描いたものとは違うかたちでよくなっていると伝えたそうです。

ピアニストが作曲者の作品のさらなる魅力を引き出した良い例でしょう。

マリー・ビゴーのもとには後にフェリックス・メンデルスゾーンがピアノの弟子入りをしています。

それはそうと、ベートーヴェンの女性観を知るできごとがビゴー夫妻との間で起こります。

当時は既婚女性が夫の同席していない場で、他の男性と出歩くなどは誤解を招きかねない行為でした。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
現在でもそうだと思うけれど...

しかし、ベートーヴェンにはその辺の社会的ルールに疎(うと)い面があったようです。マーリーの夫がいないにもかかわらず、彼女とその従妹を散歩に誘ったのです。

その誘いは断られましたし、夫妻との関係もギクシャクしてしまったのでした。

これはベートーヴェンに下心があったということではなかったようです。彼は世間体を気にすることなく、自分のモラル基準を行動に移しただけだったのです。

社会とベートーヴェンのモラル感のズレを感じる出来事でした。

その後、フランスによるウィーン侵攻の影響で、ビゴー夫妻はパリに移ります。前述の通りパリでマリー・ビゴーは、メンデルスゾーンと出会うことになるのです。

音楽家の不思議な巡り合わせですね。

ベートーヴェンとゲーテ

ゲーテ像ゲーテ像

ベッティーナ・ブレンターノという女性との出会いは、ベートーヴェンにとって思わぬ幸福感を与えることになったようです。1810年(文化7年)のことです。

ベッティーナは、ベートーヴェンがかねてから尊敬しているゲーテと親しい関係を持つ女性でした。二人はすぐに親しくなります。

ベートーヴェンがベッティーナと会っていた期間はそれほど長くはありませんが、ゲーテと話をしたい胸のうちを伝えていました。その後、ベッティーナはゲーテにベートーヴェンを紹介する手紙を書くのでした。

ベートーヴェンは歌曲を作曲する際に、自分で詩を書くことはありませんでしたが、心情と一致する作品を探し出していました。そのようなベートーヴェンが好んでいたのがゲーテでした。

詩だけではありません。ゲーテの悲劇「エグモント」への音楽として、序曲のほか9曲を作曲(1810年)しています。

1812年(文化9年)、温泉で有名なチェコのテプリッツで、ベートーヴェンはゲーテと対面する機会を得ます。当初は若干の誤解もあったようですが、二人は連日のように会っています。

幼い頃から憧れていたゲーテと過ごした時間は、40歳を超えたベートーヴェンにとって何よりもの幸福だったのかもしれません。

ベートーヴェンの健康問題と最後

1816年(文化13年)頃から、ベートーヴェンの健康状態に不安の影が忍び寄ります。身体のあちらこちらに不調を感じるようになっていました。

1817年(文化14年)には、誤診ではありましたが肺結核と思われるほど状態が悪化します。当時の肺結核は、現代以上に命に係わる病気でした。

1821年(文政4年)にも健康状態が悪化します。

1825年(文政8年)には吐血し、消化器全体の機能が弱っていきました。54歳のベートーヴェンのとっては、死を意識し始めることにつながったことでしょう。

1826年(文政9年)、ベートーヴェンは肺炎を患い、その後、肝硬変を発症します。その翌1827年(文政10年)3月26日、ベートーヴェンは56歳で亡くなりました。

3月29日の葬儀では、音楽関係者をはじめとする大勢の人々が参列し、その数2万人と言われています。(宮廷関係者からの供物や使者はなかったそうです)

「フィデリオ」はなぜベートーヴェン唯一のオペラ作品となったのか?

カラヤン・ベートーヴェン序曲

ベートーヴェンの時代、音楽家として認められるにはイタリア・オペラでの成功が必須といわれていたにもかかわらず、なぜ彼はオペラを1作しか遺さなかったのでしょうか?

ベートーヴェンが自分の心情にピッタリハマるものにしか興味を示さなかったことが大きな理由として考えられます。

その他の要因も考えてみましょう。1810年代末期、ナポレオン戦争への反動で若者たちの間には過激なナショナリズムが醸成されていました。

そしてコツェブー暗殺事件が起きます。大学生が外交官であり劇作家でもあったコツェブーを襲ったのです。

事件の詳細は割愛しますが、これにより反体制的な言論・出版などを弾圧しようとした政治家が登場しました。オーストリア外相メッテルニヒです。彼が掲げたのは、コツェブー暗殺事件のようなテロ行為を未然に防ぐことでした。

個人の手紙までもが検閲の対象となり、情報提供という名の密告が求められるようになったのです。

これはベートーヴェンのオペラに対する創作意欲にマイナスの影響を与えたことでしょう。彼が関心をもった作品は、ことごとく検閲で差し止められてしまったと思われるからです。

ベートーヴェン自身もその政治的発言により逮捕の危機が迫りました。1820年(文政3年)に警視総監セドルニツキー伯爵が、ベートーヴェンの逮捕について皇帝に上申したのです。幸いなことに、ヨーロッパにその名が知られていたことで、逮捕はされませんでした。

歌劇「フィデリオ」の再演

1814年(文化11年)、歌劇「フィデリオ」(第三稿)は8年の時を経て再演され成功を収めます。

さらには同年秋からのウィーン会議でも話題となり、何度も上演されることに。当然、ヨーロッパ各国の要人たちやジャーナリストも観たはずです。

1作しかオペラを完成させていなかったとはいえ、歌劇「フィデリオ」はベートーヴェンをヨーロッパにおける大作曲家の座に押し上げていました。

フィデリオの成功により、ベートーヴェンにはオペラの依頼も絶えない時期がありました。ベートーヴェン自身もオペラの構想を持っていたようですが、完成・実現には至りませんでした。

晩年のベートーヴェン作品と第九

ベートーヴェン交響曲第5番第九が収録されているレコードのブックレット

ベートーヴェンは同時進行で複数の楽曲を手掛けていたと言われています。ミサ・ソレムニスとピアノ・ソナタ第30~32番もそうでした。全く趣の異なる楽曲でも問題なく作曲できたのは驚くばかりです。

ベートーヴェンが亡くなるまでの5年間に作曲した作品の一部をみてみましょう。

  • ピアノ・ソナタ第31番【1822年】
  • ピアノ・ソナタ第32番【1822年】
  • ミサ・ソレムニス【1823年】
  • 交響曲第9番【1824年】
  • 弦楽四重奏曲第12番【1825年】
  • 弦楽四重奏曲第15番【1825年】
  • 弦楽四重奏曲第13番【1825年】
  • 弦楽四重奏曲第14番【1826年】
  • 弦楽四重奏曲第16番【1826年】
  • 大フーガ【1826年】

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交響曲に関しては、第8番(1812年)と第9番の間には10年以上の時間的隔たりがあります。

推測の域を出ませんが、当初ベートーヴェンは、交響曲は第8番までで良しとしていたのではないでしょうか?

その代り「ミサ・ソレムニス」に精力を注ぎこもうとしていたのではないかと思うのです。

しかし「ミサ・ソレムニス」が完成してみると、音楽家人生の集大成とまでは感じられず、これで終わらせるわけにはいかないという想いになり、交響曲第9番を作成する気になったと考えられます。

交響曲第9番について、その構想自体はベートーヴェンのボンでの生活当時にまで遡ることができます。18歳のときにシラーの「歓喜に寄せて」という長編詩に曲を付けようとしていました。

その構想が実現されていないことも、第九作曲の動機になったはずです。

1823年(文政6年)から1824年(文政7年)にかけてベートーヴェンは交響曲第9番を作曲します。体調は良いとは言えない状況でした。

おもしろいことに、ベートーヴェンは第九の初演をウィーンではなくベルリンで行なおうとしていたようです。実際にはウィーンで初演されていますが、それには友人たちの働きかけが大きく影響したのでした。

なぜ、ウィーンを避けようとしたのか?

その理由は、当時のウィーンで関心を集めていたロッシーニのイタリア・オペラの存在に対して良い気持ちを持っていなかったためだと考えられます。

結局のところ交響曲第9番は、1824年(文政7年)5月7日にウィーンで初演されました。ミサ・ソレムニスも全曲演奏ではなかったもの「キリエ」「クレド」「アニュス・デイ」が演奏されました。

実際の指揮は人の助けを得ましたが、ベートーヴェン自身も総指揮として指揮台に上がりました。観客の盛大な拍手も完全に失聴していたベートーヴェンには聞こえませんでした。

1824年(文政7年)の冬、ベートーヴェンの体調はだいぶ回復していました。

このときベートーヴェンは交響曲第10番を作曲することは考えなかったのでしょうか?

おそらく考えたことでしょう。

しかし、着手したのは弦楽四重奏曲第12番でした。1822年(文政5年)に、ロシアのニコライ・ガリツィン侯爵から弦楽四重奏曲の依頼を受けていたこともその要因のひとつです。

ベートーヴェンが亡くなる直前の1825年(文政8年)から1826年(文政9年)にかけて作曲したのは、大フーガを含む6曲の弦楽四重奏曲でした。

わたなびがおすすめするベートーヴェン作品

ここでの選曲は私の個人的な好みに影響されています。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
あらかじめご了承くださいね

「ベートーヴェンの音楽を聴いてみたいけれど、何から聴いたらいいのかわからない」という場合の、取っ掛かり程度に捉えていただければと思います。

交響曲第7番 明るく颯爽とした名曲。
交響曲第5番 最初から最後まで聴いたことのある人は少ないのでは?
交響曲第8番 演奏時間がコンパクトで聴きやすいです。
交響曲第9番 ベートーヴェンのド定番。
ピアノ・ソナタ 第8番「悲愴」 第2楽章は泣きそうなほどステキ。
ピアノ・ソナタ 第14番「月光」 第1楽章が非常に美しいです。
ヴァイオリン・ソナタ 第7番 個人的には聴くほどに好きになりそうな曲です。

指揮者や管弦楽団、ピアニスト、ヴァイオリニストは、有名どころから聴き始めてみてはどうでしょう。色々な作品(CD,レコード等)を聴いているうちに、自分の好みが形成されていきますので。

まとめ

ベートーヴェン
  1. ベートーヴェンはボンとウィーンで過ごした。
  2. ベートーヴェンが完成させたオペラは「フィデリオ」のみ。
  3. ベートーヴェンはゲーテを尊敬していた。

■参考文献

  • ベートーヴェンの生涯 青木やよひ著 平凡社
  • クラシック音楽全史 松田亜有子著 ダイヤモンド社
クラシック音楽の歴史をザッと眺められる感覚の書籍。読みやすい文章で書かれている1冊です。

POSTED COMMENT

  1. 通りすがり より:

    「平均率」は「平均律」のタイポだと思われます。

    • わたなびはじめ より:

      通りすがり様
      なびさんぽに訪れてくださり、ありがとうございます。
      私の入力ミスです。
      すぐに訂正させていただきます。
      ご指摘ありがとうございました。

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