ドビュッシーといえば、フランスを代表する作曲家のひとりです。後世の作曲家に大きな影響を与えたと言われています。
この記事では、作曲家ドビュッシーの生涯をわかりやすくご紹介します。
クロード・ドビュッシーとは

クロード・アシル・ドビュッシーは19世紀中期から20世紀前半に生きた、後期ロマン派のフランス人作曲家です。名前についてですが、28歳までは「アシル=クロード」だったようです。
ドビュッシーは1862年(文久2年)8月22日にフランス・イヴリーヌ県サン=ジェルマン=アン=レーで誕生しました。父親は陶器店を営んでいて、母親は裁縫師でした。ドビュッシーは長男で、弟が4人います。
1864年(文久4年・元治元年)、ドビュッシーが2歳の頃に家族は経済的な問題のため、オー=ド=セーヌ県のクリシーにある母方の実家で同居することになりました。
若き日のドビュッシーの音楽教育

1870年(明治3年)、ドビュッシーはカンヌ在住の父方の伯母クレメンティーヌのもとに滞在し、ジャン・チェルッティというイタリア人ヴァイオリニストからピアノを学んでいます。
翌1871年(明治4年)になると、フランスの詩人ポール・マリー・ヴェルレーヌの義母アントワネット・モテ・ド・フルールヴィルから音楽の基礎を学びます。フルールヴィル夫人に学ぶようになるキッカケは、ドビュッシーの父親の知人が関係していたようです。
1872年(明治5年)、10歳のドビュッシーはパリ音楽院に入学します。ドビュッシーはもともとピアニストを目指していたようす。パリ音楽院では「ピアノ」「ピアノ伴奏法」「作曲」「ソルフェージュ(楽譜を読む基礎的練習)」の指導を受けました。
2年後、パリ音楽院内のコンクールでショパンの「ピアノ協奏曲第2番 第1楽章」を演奏し、第2次席賞を得ています。翌1875年(明治8年)には、ショパンの「バラード第1番」を演奏し、第1次席賞を獲得しました。その後は第2次席賞を1度獲得したものの、2年連続で賞を逃してしまいます。
この結果はドビュッシーがピアニストになる夢をあきらめることにつながります。ドビュッシーはピアノ科を辞め、ピアノ伴奏法のクラスに移ることになりました。
それとは別に、ドビュッシーは作曲にもチャレンジしていました。
1880年(明治13年)、ドビュッシーは18歳でフォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴する機会を得ます。メック夫人はチャイコフスキーのパトロンだった人物です。
メック夫人のとりなしにより、ドビュッシーは自身の作曲した小品の楽譜をチャイコフスキーに送ったことがありました。チャイコフスキーの評価は相当厳しいものでした。
この期間、チャイコフスキーを含めロシア音楽を学んでいたドビュッシーは、チャイコフスキーだけでなくロシア5人組の影響を受けることになります。
ドビュッシー、ローマ大賞に挑戦する

ドビュッシーのローマ大賞への挑戦は1882年(明治15年)から始まります。
1882年 | 予選落ち。 |
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1883年 | 「祈り」で予選通過。 カンタータ「剣闘士」が本選にて第2等賞受賞。 |
1884年 | カンタータ「春」で予選通過。 カンタータ「放蕩息子」でローマ大賞受賞。 |
1884年(明治17年)の審査員にはサン=サーンス、グノーといった顔ぶれも加わっていました。
ローマ大賞受賞者に与えられる権利を利用してローマ留学に出るドビュッシーでしたが、期間を満了することなくパリへと戻っています。イタリアに馴染めなかったからかもしれません。
1888年(明治21年)、ドビュッシーは銀行家の支援でバイロイトへ赴き、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」および「パルジファル」を観賞しました。どうやら、ドビュッシーの念願だったようです。
ドビュッシーの改名とその時期の活躍

1889年(明治22年)にドビュッシーは国民音楽協会に入会しています。このことは彼にとっては大きな変化を経験することにつながりました。
フランス人作曲家エルネスト・ショーソンと知り合い、その他にも人脈を得ただけでなく、発表の場も見い出すのでした。
かつてはワーグナー作品を観賞することに強い想いを抱いていたドビュッシーでしたが、再度バイロイト音楽祭に足を運んだ際には、ワーグナーの音楽性に限界を感じアンチ・ワグネリアンに転身します。
翌1890年(明治23年)、28歳でドビュッシーは「アシル=クロード」から「クロード=アシル」へと改名します。この理由について詳しいことはわかりません。
1894年(明治27年)12月22日には「牧神の午後への前奏曲」が初演されました。
1900年以降、次々にドビュッシーの作品が初演されるようになります。
- ビリティスの歌【1900年初演】
- 夜想曲【1900年初演】
- 歌劇「ペレアスとメリザンド」【1902年初演】
- 版画【1904年初演】
なかでも歌劇「ペレアスとメリザンド」の初演は大成功し、ドビュッシーの作曲家としての評価を高めました。フランス音楽史上における画期的な作品と言われています。
歌劇「ペレアスとメリザンド」のすごさを物語っているのがその上演回数です。
初演以降の10年間でパリだけでも約100回は上演されています。
1903年(明治36年)、ドビュッシーはレジオン・ドヌール五等勲章を受勲します。レジオン・ドヌール勲章は、現在のフランスでも最高勲章の位置付けです。
1905年(明治38年)には交響詩「海」を発表します。
その後も大作劇音楽「聖セバスティアンの殉教」(1911年)やバレエ音楽「遊戯」(1912年)などを作曲しました。
晩年のドビュッシー

1914年(大正3年)第一次世界大戦が勃発し、9月にドビュッシーは家族とアンジェに避難します。しかし、間もなくパリに戻ります。
このときドビュッシーは大腸癌を患っていました。1918年(大正7年)になると、直腸癌の影響でベッドから起き上がれない状態に。
ドビュッシーは1918年(大正7年)3月25日、パリにて亡くなりました。
ドビュッシーの代表作

ここではドビュッシーの作品を一部ご紹介します。
管弦楽曲 | 交響組曲「春」【作曲:1886年~1887年】 |
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ピアノ曲 | 2つのアラベスク【作曲:1888年、改訂:1891年】 |
ピアノ曲 | 夢想【作曲:1890年頃】 |
ピアノ曲 | ベルガマスク組曲【作曲:1890年頃、改訂:1905年】 |
2台ピアノ曲 | リンダラハ【作曲:1901年】 |
オペラ | 歌劇「ペレアスとメリザンド」【作曲:1893年~1901年、改訂:1902年】 |
ピアノ曲 | 版画【作曲:1903年】 |
管弦楽曲 | 牧神の午後への前奏曲【作曲:1892年~1894年】 |
管弦楽曲 | 交響詩「海」【作曲:1903年~1905年】 |
バレエ音楽 | 舞踊詩「遊戯」【作曲:1912年】 |
2台ピアノ曲 | 白と黒で【作曲:1915年】 |
まとめ
- ドビュッシーはパリ音楽院で学び、当初はピアニストを目指していた。
- ドビュッシーはローマ大賞の受賞者。
- 歌劇「ペレアスとメリザンド」で作曲家としての立場を確立した。