世界的ヴァイオリニストであり作曲家でもあったフリッツ・クライスラーとは、どのような生涯を送ったのでしょうか?
わかりやすくご紹介します。
フリッツ・クライスラーとは

最終的にアメリカ国籍を取得するクライスラーの本名は「フリードリヒ・クライスラー」です。
フリッツ・クライスラーは1875年(明治8年)2月2日にオーストリア・ウィーンで誕生しました。
父親が医師で音楽好きだったこともあり、ヴァイオリンをはじめたのは3歳頃だったと言われています。7歳でウィーン高等音楽院に進学したというのですから、まさに神童。もちろん、特例での入学でした。
ウィーン高等音楽院では、オーストリア出身のヴァイオリニストであり作曲家でもあったヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世から演奏を学びます。また、作曲についてはアントン・ブルックナーから学んでいます。
ウィーン高等音楽院は10歳で卒業。その後、パリ高等音楽院に進み、首席で卒業したのは12歳のことでした。
1888年(明治21年)、フリッツ・クライスラーは自身初の演奏会をアメリカ・ボストンで開催します。1889年(明治22年)にはオーストリアに凱旋帰国、その後は父親の勧めで高等学校に入ります。
父親は、まだ若い息子フリッツが世間にもてはやされることを望んでいなかったようです。とても賢明な判断をされたと思います。医学については、本気で学ぶ気持ちになれなかったとか…
音楽の道を突き進むと思われたフリッツ・クライスラーでしたが、一時的に音楽から距離を置きます。1895年(明治28年)にはオーストリア帝国陸軍に入隊。本気で軍人になることも考えたようですが、家庭の諸事情により除隊します。

音楽のエリート街道を突き進んできたフリッツ・クライスラーでしたが、意外なことにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の入団試験に落ちた経験を持っています。初見での演奏が得意ではなかったことと、音楽的にあら削りの部分があったことが理由のようです。
1899年(明治32年)、フリッツ・クライスラーはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演することになります。結果は大成功。
1902年(明治35年)にはロンドンでのデビューも果たし、音楽家として確実に実績を積んでいきます。この年にフリッツ・クライスラーは結婚をします。
クライスラー夫人は、夫フリッツのマネージャーのような役割を果たしてくれていました。フリッツが音楽に専念できるように配慮するだけでなく、ギャラの交渉などを行ないました。それでいて出しゃばり過ぎない姿勢が、クライスラー夫妻にとっての成功の秘訣だったようです。
ここでまた、フリッツ・クライスラーは軍隊に戻ることになります。1914年(大正3年)に始まった第一次世界大戦のためでした。しかしフリッツはケガを負い、名誉の除隊となります。
戦争終結後、フリッツ・クライスラーはヨーロッパの音楽界に戻ります。同じ頃、ロシア帝国出身のピアニストであり作曲家でもあったセルゲイ・ラフマニノフと親しくなります。
「愛の喜び」「愛の悲しみ」をピアノ独奏用に編曲したのはラフマニノフでした。
1938年(昭和13年)、フリッツ・クライスラーはフランス国籍を取得します。オーストリアを取り巻く情勢が厳しくなっていました。
第二次世界大戦が勃発すると、アメリカに移ります。1943年(昭和18年)にはアメリカ国籍を取得しています。
1962年(昭和37年)1月29日、フリッツ・クライスラーは心臓疾患のためニューヨークで亡くなりました。
なびさんぽで紹介しているクライスラー作品

【なびさんぽ】でご紹介しているクライスラーの作品は次の通りです。
愛の悲しみ | ヴァイオリンとピアノのための楽曲として、1905年(明治37年)に出版。 |
---|
まとめ
- パリ高等音楽院を首席で卒業。
- ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の入団試験に失敗した経験がある。
- アメリカ国籍を取得。