「ラプソディ・イン・ブルー」などで知られる、アメリカ音楽の重要な作曲家のひとりジョージ・ガーシュインとは、どのような生涯を送ったのでしょうか?
わかりやすくご紹介します。
ジョージ・ガーシュインについて

ジョージ・ガーシュインは、アメリカ音楽の重要な作曲家のひとりで、クラシック音楽だけでなくポピュラー音楽も手掛けていました。
1898年(明治31年)9月26日にニューヨーク・ブルックリンで生まれました。本名は「ジェイコブ・ガーショヴィッツ」です。
音楽を始めたキッカケは、父親がピアノを購入したことだったようです。
当初はガーシュインのお兄さんにピアノを弾かせたかったようですが、親の想いとは別にジョージ・ガーシュインがピアノに親しむことに。
ピアノを習い始めたのが13歳だったので、ピアニストを目指すには遅いと思われる年齢だったと思います。しかしジョージ・ガーシュインが才能を発揮したのは、演奏よりも作曲でした。
お兄さんとタッグを組んで、ミュージカル用のポピュラー・ソングも作っています。ちなみに、ガーシュインのお兄さんは作詞家でした。
「ラプソディ・イン・ブルー」作曲当時、管弦楽用のオーケストレーションには精通していなかったガーシュインでしたが、その後、独学で身に付けます。
ガーシュインのオーケストレーション能力は「パリのアメリカ人」でも発揮されています。
すでに名声を得ていたガーシュインでしたが、オーケストレーションについて正式に学びたい気持ちが強かったのでしょう。作曲家としてだけでなく、ムソルグスキー作曲「展覧会の絵」の管弦楽版編曲でも有名なモーリス・ラベルに教えを請おうとしたことがあったようです。
結果的にラヴェルは断るのですが、その理由がユーモラスです。「すでに一流なのだから、今さら二流のラヴェルになることはない」といった内容の断られ方をしています。これは単なるお世辞ではなかったと思います。
相手の能力を称えているんだから。
本人が思っている以上に、周囲の評価が高かったということです。しかも、超一流の音楽家がそう思っていたのですからスゴイことだと思います。(普通は逆ですよね。自分が思っているほど周囲の評価が得られないというのが一般的でしょう。)
音楽で大成功していたガーシュインでしたが、脳腫瘍を患います。
1937年(昭和12年)7月9日に昏睡状態となり、2日後の7月11日に亡くなりました。38歳という若さでした。
なびさんぽで紹介しているガーシュイン作品

【なびさんぽ】でご紹介しているガーシュインの作品は次の通りです。
ラプソディ・イン・ブルー | 初演:1924年(大正13年)2月12日 |
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まとめ
- お兄さんは作詞家だった。
- 兄弟でミュージカル用のポピュラー・ソングなどを手掛けていた。
- 「ラプソディ・イン・ブルー」は名曲!
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