モーリス・ラヴェルとはどのような作曲家だったのでしょうか?
写真を見るとダンディーでカッコいい男性といった印象を受けます。
ラヴェルは自身の作曲した「ボレロ」や「スペイン狂詩曲」だけでなく、他者の作品の編曲でも才能を発揮しました。
「管弦楽の魔術師」と呼ばれたラヴェルの生涯と代表作について、わかりやすくご紹介します。
ラヴェルの誕生と幼少期の音楽教育

モーリス・ラヴェルは1875年(明治8年)3月7日にフランス・シブールで生まれました。
シブールはフランス南西部バスク地方にあるコミューン(基礎自治体)です。スペインとの国境に近く、缶詰(魚)の製造が盛んなようです。
ラヴェルが生まれた家は1600年代にオランダの建築家により建てられたもので、現存しています。
スイス出身の父親は、実業家の傍ら発明もしていたようです。母親はバスク地方の出身者です。
ラヴェル一家は、ラヴェルの誕生後まもなくパリへと引っ越しています。幼きラヴェルは母親の影響でバスクの文化や民謡に親しんでいました。
ラヴェルは幼いころからピアノや作曲を学び始めました。ラヴェルのご両親(特に父親)は、ラヴェルが音楽家になることを望んでいたようです。
ラヴェルのパリ音楽院時代

ラヴェルはパリ音楽院に14年間在籍しています。その間、フランス人作曲家ガブリエル・フォーレらのもとで学びました。
作曲家としての公式デビューは、1898年(明治31年)3月5日に開催された国民音楽協会 第266回演奏会でのことでした。しかし、ラヴェルが作曲家として「ラヴェルらしさ」を確立したと世間に認められるのは1901年(明治34年)の「水の戯れ」からでした。
その後1908年(明治41年)までに、ラヴェルは精力的に作曲活動を続けています。「スペイン狂詩曲」もこの時期の作品です。
フランスにはルイ14世が創設し1968年(昭和43年)まで続いたフランス作曲家の登竜門のコンクール「ローマ賞」が存在していました。ローマ大賞受賞者は、フランス政府から奨学金付きで留学する権利が付与されるのでした。
ラヴェルは1900年(明治33年)からローマ大賞を獲得しようと5回チャレンジしましたが、受賞はかないませんでした。
ラヴェルにとって年齢制限によりラストチャンスとなった1905年(明治38年)のローマ賞で事件が起こります。なんと最後の挑戦で、ラヴェルは予選落ちしてしまったのです。すでに「水の戯れ」や「亡き王女のためのパヴァーヌ」等の作品を作曲していたラヴェルの予選落ちは、「ラヴェル事件」と呼ばれる騒ぎになってしまったのでした。
世間(少なくとも音楽関係者)には相当な衝撃として受け止められたはずだよ。
カリキュラム変更については、「ラヴェル事件」が原因なのかは正直よくわからないところもある。
キッカケになったことは間違いないだろうけどね…
そういえば、「ラヴェルがパリ音楽院をいつ卒業したのか?」については触れませんでしたね。どうやらラヴェルの成績は良くなかったようです。そのためパリ音楽院を除籍処分となり、卒業していません。
その後のラヴェルの活躍

ローマ賞における「ラヴェル事件」から2年後の1907年(明治40年)、ラヴェルは「ダフニスとクロエ」を作曲しました。依頼主はバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の主宰者であり芸術プロデューサーでもあったセルゲイ・ディアギレフという人物です。
1909年(明治42年)にはラヴェル初の海外ツアー(ロンドン)に参加しています。
作曲家として仕事の依頼を受け、ツアーで国外での人気を実感したであろうラヴェル。しかしその後苦難が続き、順風満帆とは言えませんでした。
1911年(明治44年)、歌劇「スペインの時」の初演において、ラヴェルは高い評価を得ることができませんでした。このときはまだ、ラヴェルのオーケストレーション能力の高さが一般聴衆や批評家に受け入れられていなかったのです。
さらに第一次世界大戦が1914年(大正3年)に勃発します。意外にも、ラヴェルはパイロットに志願しています。しかし体重が規定に満たなかったため、その後、トラック輸送兵となりました。
物資の輸送中、ラヴェルは腹膜炎を患います。手術を受けたものの、その傷は生涯完治することはありませんでした。
1920年(大正9年)、ラヴェルに転機が訪れます。かのナポレオンにより制定された栄誉制度「レジオンドヌール勲章」の叙勲者にノミネートされたのです。しかしラヴェル自身の拒否により、叙勲は撤回されてしまいます。
ラヴェルの作品は現代でも親しまれているので華々しい音楽家生活を送っていたのかと思っていましたが、苦難の時期もあったのでした。

1928年(昭和3年)、ラヴェルは演奏旅行で渡米します。ニューヨークで開催された演奏会で、ラヴェルは聴衆からの盛大な賞賛を受けます。さらにはラヴェルの名が世界的に知られることにもなりました。
演奏旅行の成功はラヴェルにプラスの影響を与えたことでしょう。
しかし…。
アメリカからフランスに帰国したラヴェルでしたが、体調不良や事故の影響などにより、残りの生涯では「ボレロ」の他3曲しか制作できませんでした。
ラヴェルの晩年と死

ラヴェルはその晩年(1927年ころから)、記憶障害や言語症を患っていました。(アメリカへの演奏旅行の前から症状が出ていたのでしょう。)
その症状を抱えつつ、1933年(昭和8年)11月にはパリで自ら「ボレロ」の指揮をしました。それがラベルにとって最後のコンサートとなりました。自力ではサインもできない状態でした。
1937年(昭和12年)12月28日、モーリス・ラヴェルはパリで亡くなりました。62歳でした。
ラヴェルは作曲家としてだけでなく、ムソルグスキーのピアノ曲「展覧会の絵」をオーケストラ編曲したことでも有名です。
その才能は「オーケストレーションの天才」や「管弦楽の魔術師」と形容されるほどでした。
ラヴェルの遺した代表作について

作曲家としてのラヴェルは、次のような作品を残しています。
- ピアノ曲「鐘が鳴るなかで」耳で聴く風景より【1897年】
- 序曲「シェエラザード」【1898年】
- スペイン狂詩曲【1908年】
- 亡き王女のためのパヴァーヌ【ピアノ版:1899年、管弦楽版:1910年】
- バレエ音楽「マ・メール・ロワ」【ピアノ連弾版:1910年、管弦楽版:1911年】
- バレエ音楽「ダフニスとクロエ」【1912年】
- 舞踏詩「ラ・ヴァルス」【1920年】
- ボレロ【1928年】
- 左手のためのピアノ協奏曲【1930年】
etc...
ラヴェルが編曲した他の音楽家の作品もご紹介します。
- ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」:2台ピアノ用に編曲。【1910年】
- ムソルグスキー「展覧会の絵」:管弦楽用に編曲。【1922年】
etc...
とりわけ「ボレロ」は、僕だけでなく母も大好きだった楽曲だな。
まとめ
- ラヴェルはフランスを代表する作曲家のひとり。
- 「管弦楽の魔術師」の異名の持ち主。
- ラヴェルは、「ボレロ」や「スペイン狂詩曲」などの代表作を遺した。