20世紀に活躍したロシア(ソビエト連邦)の作曲家ショスタコーヴィチとは、どのような生涯を送ったのでしょうか?
わかりやすくご紹介します。
ショスタコーヴィチとは

ドミトリ・ショスタコーヴィチは、20世紀に活躍したロシア(ソビエト連邦)の作曲家です。交響曲が有名ですが、管弦楽曲だけでなく数多くの映画音楽の制作も行なっています。20世紀を代表する作曲家のひとりです。
ショスタコーヴィチは、ロシア帝国時代の首都サンクトペテルブルクで1906年(明治39年)9月25日に誕生しました。
1915年(大正4年)に両親と共にリムスキー=コルサコフの歌劇「サルタン王物語」を観劇。同年、ショスタコーヴィチは母親からピアノを習い始めます。時をほぼ同じくして、作曲も始めています。
翌1916年(大正5年)には、グリャッセール音楽学校に入学。
1917年(大正6年)頃からローザノヴァのもとでピアノ学びます。
1919年(大正8年)、ペテルブルク音楽院に入学し、作曲家であり指揮者でもあったアレクサンドル・コンスタンティノヴィチ・グラズノフに師事します。グラズノフは1906年(明治39年)から約10年間、ペテルブルク音楽院の院長を務めた人物でもありました。
ショスタコーヴィチは、1923年(大正12年)にペテルブルク音楽院のピアノ科を修了し、1925年(大正14年)には同院の作曲科も修了します。これによりペテルブルク音楽院を卒業します。その修了制作としてショスタコーヴィチは、交響曲第1番を作曲しました。
1926年(大正15年・昭和元年)には交響曲第1番の初演を果たし、ペテルブルク音楽院の大学院に進みます。交響曲第1番は国際的に注目されました。
ショスタコーヴィチは、第1回 ショパン国際ピアノコンクールへの出場経験も持っています。ピアニストとしても相当の腕前だったようですね。
1928年(昭和3年)には短期間ながらも、メイエルホリド劇場の音楽部長を務めました。
ショスタコーヴィチはバレエ音楽なども手掛けましたが、その初演で必ずしも高い評価を得られたわけではありませんでした。
1932年(昭和7年)には作曲家同盟(現在のロシア連邦作曲家同盟)レニングラード支部の運営委員に選出されています。
ショスタコーヴィチは人望があったのでしょう。レニングラード市アクチャーブリ区の区議会議員にも選ばれました。現役音楽家と政治家という組み合わせは、あまり聞いたことがありませんね。
1937年(昭和12年)にはあの有名な交響曲第5番「革命」の初演が行なわれ、大成功。
交響曲第5番を「革命」と呼ぶのは、日本を含めたアジアの数ヶ国だけみたい。
ショスタコーヴィチは数々の受賞歴を持っています。
その一部をご紹介します。
- 労働赤旗勲章受章【1940年】
- ピアノ五重奏曲にてスターリン賞受章【1940年】
- 交響曲第7番にてスターリン賞第1席受章【1942年】
- ロシア共和国功労芸術家の称号授与【1942年】
- レーニン勲章受章【1946年】
- ロシア共和国人民芸術家の称号授与【1947年】
- 「森の歌」にてスターリン賞第1席受章【1950年】
- ウィーン・モーツァルト協会よりモーツァルト記念メダルを授与【1969年】
- 10月革命勲章受章【1971年】
etc...
ショスタコーヴィチは、レニングラード音楽院とモスクワ音楽院で教授を務めたり、ソヴィエト連邦最高会議代議員にも選出されたりと、幅広く活躍した人物でした。チャイコフスキー国際コンクールにおいて組織委員会委員長を務めた時期もありました。
その作曲活動も精力的で、交響曲と弦楽四重奏曲は各15曲、映画音楽30曲以上などを遺しています。
ショスタコーヴィチは、1975年(昭和50年)8月9日にモスクワで肺がんのため亡くなりました。
なびさんぽで紹介しているショスタコーヴィチ作品

【なびさんぽ】でご紹介しているショスタコーヴィチの作品は次の通りです。
交響曲第10番 | 作曲:1953年(昭和28年) |
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まとめ
- ショスタコーヴィチは、20世紀のロシア(ソビエト連邦)を代表する作曲家のひとり。
- 交響曲などの管弦楽曲だけでなく数多くの映画音楽も制作。
- チャイコフスキー国際コンクールで組織委員会委員長を務めたこともある。