油彩画だけでなくモダンなポスターでも有名なフランスの画家アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック。
ロートレックは、どのような生涯を送ったのでしょうか?
わかりやすくご紹介します。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックとは

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、1864年(文久4年・元治元年)11月24日に生まれました。ロートレックはフランス・タルヌ県アルビの出身です。
ロートレックの先祖は彼の生まれた頃から1000年ほども遡ることができる貴族で、トゥールーズ=ロートレック家は伯爵の家系でした。
ロートレックは伯爵家の長男として生まれましたが、幼少の頃から病弱でした。弟は幼くして亡くなっています。
8歳の頃、母親と共にパリに移り住み、絵を描き始めます。息子の才能に気付いた母親は、ロートレックに絵画のレッスンを受けるように手配したのでした。
ロートレックは10代半ばの頃、2度にわたる足の骨折事故のため、両足の成長がストップしたしまったそうです。
その後、病気が原因でアルビに住む父親の元に戻りますが、父子の関係は良好とはいえなかったようです。
しかし1882年(明治15年)、ロートレックは画家になることを決意しパリにでます。
最初はレオン・ボナの画塾に入り、画塾閉鎖後は、モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に移ります。
残念ながら両塾の指導は、ロートレックにとって満足できるものではありませんでした。
幸いだったのは、コルモンの画塾において、ゴッホやアンクタン、ベルナールらと出会えたことです。これにより、ロートレックは印象主義的な影響を受けます。
そして時をほぼ同じくして、ロートレックは夜のモンマルトルの魅力に惹かれるようになります。「シャ・ノワール」や「ル・ミルリトン」といった夜の酒場やダンスホールに頻繁に通いました。
1880年代後半には、新たに開店した「ムーラン・ルージュ」などのポスターを手掛けるようになります。
バーンズ・コレクション展の図録には、ロートレックの作品に関して次のような解説が記されています。
強い輪郭線と平坦で鮮やかな色彩による大胆な構成という彼の手法には日本版画の影響も認められ、≪フェルナンド・サーカスにて≫(1888年、シカゴ、アート・インスティテュート)や≪ムーラン・ルージュのダンス≫(1890年)などの油彩の代表作を始め、1891年の「ムーラン・ルージュ」のポスターを皮切りに石版画にも腕を振るった。
出典:『バーンズ・コレクション展図録』
小勝禮子著 125ページ
ロートレックは、サーカスや劇場、そこで生活する女性たちなどを描きました。
1898年(明治31年)頃になると、身体的な偏見を苦にしたアルコール依存と、放埓な生活が身体を蝕むようになります。アルコール依存症だけでなく梅毒も患い、サナトリウムに短期入院した時期もありました。
1901年(明治34年)にはパリを出て母親のもとに身を寄せます。しかし同年9月9日、脳出血によりロートレックは36歳という若さで亡くなりました。
なびさんぽで紹介しているロートレック作品

【なびさんぽ】でご紹介しているロートレックの作品は次の通りです。
モンルージュにて-赤毛のローザ | 制作年:1886年(明治19年)~1887年(明治20年)。 【バーンズ財団美術館所蔵】 |
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まとめ
- ロートレック家は伯爵の家系。
- 足の骨折事故の影響で、両足の成長がストップ。
- 油彩画やモダンなポスターで有名な画家。