20世紀を代表するフランスの画家のひとり、アンリ・マティス。
絵画だけでなく版画や彫刻にも取り組んだアンリ・マティスは、フォーヴィスム(野獣派)の中核的存在でした。
「色彩の魔術師」とも呼ばれたマティスは、どのような生涯を送ったのでしょうか?
わかりやすくご紹介します。
アンリ・マティスとは

アンリ・マティスは1869年(明治2年)12月31日、フランス・ノール県ル・カトー=カンブレジで生まれました。その後引っ越しのため、幼少期はボアン=アン=ヴェルマンドワで過ごしました。
1887年(明治20年)にアンリ・マティスはパリ大学法学部に入学します。目的はカトー=カンブレジの裁判所の管理者としての資格取得のためだったようで、資格は無事に取得しました。
ところが、2年後の1889年(明治22年)に転機が訪れます。盲腸炎に罹患してしまったのです。手術後、療養中のマティスに、母親は画材をプレゼントします。
これが画家アンリ・マティス誕生のキッカケとなりました。
父親はあまりうれしくなかったようですが、1891年(明治24年)にマティスはパリのアカデミー・ジュリアン(私立の美術学校)に入ります。マティスは熱心に絵を学んだようです。
画家マティスの初期の作風には、写実的傾向が強く表れていました。その後は、次の後期印象派の画家たちの影響を受けていきます。
- フィンセント・ファン・ゴッホ
- ポール・ゴーギャン
- ポール・シニャック
- ポール・セザンヌ
1910年前後には、大胆かつ自由な色彩の作品を発表します。
そのような作風は、本人の意向とは裏腹にフォーヴィスム(野獣派)と呼ばれるようになります。フォーヴィスム(野獣派)の画家として、次の2人をご紹介します。
- アンドレ・ドラン
- モーリス・ド・ヴラマンク
しかしマティスがフォーヴィスム(野獣派)として活動したのは、2~3年間のことでした。
自身の画風を探求する過程で、単純化された線や鮮やかな色彩を経て「切り絵」に到達します。
1941年(昭和16年)、マティスは十二指腸癌を患い、その後3ヶ月間はベッドでの生活となりました。
1947年(昭和22年)マティスはドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の設計と内装デザインを任されることになります。約5年の歳月をかけてこの仕事に取り組みます。マティスの魅力が詰まったこの建築物には、切り絵を彷彿とさせるステンドグラスも用いられています。
晩年のマティスはアトリエでの制作が多くなります。多くの鳥が飼われていたそのアトリエで、マティスは過ごしました。
1954年(昭和29年)11月3日、アンリ・マティスはフランス・アルプ=マリティーム県ニースで亡くなりました。
なびさんぽで紹介しているアンリ・マティス作品

【なびさんぽ】でご紹介しているアンリ・マティスの作品は次の通りです。
音楽のレッスン | 制作年:1917年(大正6年)。 【バーンズ財団美術館所蔵】 |
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まとめ
- ゴッホやゴーギャンなどの後期印象派の画家たちから影響を受けた。
- マティスは絵画や版画、彫刻制作にも取り組んだ。
- フォーヴィスム(野獣派)の中心的存在だった。