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すぐわかる!フランドル・バロック絵画の巨匠ルーベンスとは

すぐわかる!ルーベンスとは

フランドル・バロック絵画の巨匠ルーベンスとは、どのような人物だったのでしょうか?

その生涯とおもな作品を簡単にご紹介します。

ぺーテル・パウル・ルーベンスとは

ベルギー・アントワープ【ルーベンス像】Johan ATによるPixabayからの画像:ベルギー・アントワープ【ルーベンス像】

ぺーテル・パウル・ルーベンスと言えば、バロック期におけるフランドル絵画の巨匠です。

ぺーテル・パウル・ルーベンスを「ピーテル・パウル・ルーベンス」と日本語表記したりもするようです。
ですが、日本語の新約聖書をもとに呼ぶなら「ペテロ」となりますね。

ここからは、ルーベンスの生涯と代表作をご紹介していきます。

ルーベンスの誕生と幼少期~青年期

ベルギー アントワープPublicDomainPicturesによるPixabayからの画像:ベルギー アントワープ

ルーベンスは1577年(天正5年)6月28日、現在のドイツ・ジーゲンにて誕生しました。

「ジーゲン」という地名は、ジーク河に由来するそうです。

古代には鉱石採掘が行なわれていました。
発掘調査では溶鉱炉も発見されています。
その後鉱石の採掘は中断されていましたが、中世から数世紀に渡り再開されました。

ルーベンスが誕生した16世紀頃のジーケンは、市壁と城を持つ防衛設備を持った街になっていました。

法律家だった父親が1587年(天正15年)に亡くなり、一家はアントウェルペン(アントワープ)に移ります。

ルーベンスはラテン語学校において古典教養を学んでいます。

絵画に関しては、アントウェルペンの画家トビアス・フェルハーヒトの弟子となり、その他アダム・ファン・ノールト、オットー・ファン・フェーンらから学んでいます。

1598年(慶長3年)、修行を終えたルーベンスはアントウェルペンの画家組合(芸術家ギルドの聖ルカ組合)に加入します。

当時の習わしでは、画家組合で親方の資格を得ることで、作品の販売や弟子をとることが可能となっていたのです。

このようなマイスター制度は、ドイツ以外にもあったのですね。
ワーグナーの歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を思い出しました。

ルーベンス、イタリアへ

イタリア・ヴェネツィアイタリア・ヴェネツィア

画家として独り立ちしたルーベンスですが、さらなる研鑽のため1600年(慶長5年)にイタリアへと移ります。
イタリアには約8年間滞在しました。

このイタリア時代には、かつてラテン語学校で学んでいたことが大いに役立ったと思われます。

古代ローマの作品に触れ、ルーベンス自身の絵画の方向性を見出していきました。
特にティツィアーノ・ヴェチェッリオの作品からの影響が大きかったようです。

母国語以外の言語を学んでいると、役に立つ機会が訪れるのでしょうね。
いつの日か、イタリアやベルギーなどヨーロッパ諸国に行ってみたいものです。

ルーベンス、アントウェルペンに戻る

ベルギー・アントワープベルギー・アントワープ

1608年(慶長13年)に母親が倒れたとの報を受け、ルーベンスはアントウェルペンに戻ります。
残念ながら死に際に立ち会うことはできませんでした。

私の個人的な経験で恐縮ですが、母を故郷に残して上京していた私も母の死に際に立ち会うことができませんでした。

一人暮らしだった母は、脳の出血により他界しました。

異変に気付いてくださった方が警察に連絡してくださり、母が倒れているところを発見してくださったのです。
そのため、故郷に帰り、真っ先に向かったのは警察署でした。

霊安室で母の遺体を確認し、その後、取調室?で警察の方が状況を説明してくださいました。
事件性はないとのことでしたが、家の鍵を壊して確認していただいたため貴重品を保管してくださっていました。

ルーベンスもさぞかしお母様の亡くなる前に会いたかったことでしょう。

ルーベンスがアントウェルペンに戻ったもうひとつの要素としては、八十年戦争(ネーデルラント諸州 × スペイン)が休戦期に入ったことも考えられます。

イタリアから戻ったルーベンスは、瞬く間にアントウェルペン(アントワープ)での名声を勝ち得ます。
国内外を問わず顧客の注文が殺到したようです。

宮廷画家、外交官としてのルーベンス

ベルギー・アントワープベルギー・アントワープ

1609年(慶長14年)9月、ルーベンスはスペイン領南ネーデルラント(フランドル)の総督だった大公アルブレヒト7世と大公妃によりスペイン王女イサベラの宮廷画家に任命されます。

さらにはその外交手腕から、使節としてロンドンやマドリードにも赴いています。
(ルーベンスの多彩な能力が伺えますね。)

ルーベンス絵画の需要は高まり続け、1610年(慶長15年)に自らデザインしたアントウェルペンの自宅に工房を併設します。

ルーベンスはアルブレヒト7世のお膝元のブリュッセルではなく、特別にアントウェルペンに工房を持つことを許可されています。

ルーベンスはこの時すでに、大公の特別な配慮を受けられるほどの存在だったということでしょう。

工房には多くの弟子がいましたが、その中には後にイングランドの宮廷画家になるアントニー・ヴァン・ダイクもいました。

ルーベンスの代表作と晩年

アントワープ・ノートルダム大聖堂のステンドグラスアントワープ・ノートルダム大聖堂のステンドグラス

ルーベンスと言えば外せないのがアントウェルペンのノートルダム大聖堂【聖母(マリア)大聖堂】の祭壇画として描かれた次の2作品でしょう。

  • キリスト昇架【1610年】
  • キリスト降架【1614年】

ルーベンスのその他の作品名もご紹介しましょう。

聖ゲオルギウスと竜 プラド美術館所蔵(マドリード)【1606年~1608年頃】
羊飼いの礼拝 聖パウルス教会所蔵(アントウェルペン)【1608年頃】
イサベル・クララ・エウヘニア王女 美術史美術館所蔵(ウィーン)【1615年】
貢の銭を見出す聖ペテロ アイルランド国立美術館所蔵(ダブリン)【1618年】
自画像 美術史美術館所蔵(ウィーン)【1638年~1640年頃】

1630年(寛永7年)にはイギリス国王チャールズ1世によりナイトに叙されたルーベンス。

ちなみにルーベンスは、スペイン国王フェリペ4世からもナイトの爵位を授けられています。

ルーベンスは心不全のため、1640年(寛永17年)5月30日、現在のベルギー・アントウェルペン(アントワープ)で亡くなりました。

彼のコレクションには、古代彫刻やイタリアの巨匠による名画で溢れていたようです。

まとめ

ルーベンス
  1. ルーベンスはフランドル・バロック絵画の巨匠。
  2. 外交官としても活躍していた。
  3. アントウェルペンのノートルダム大聖堂の「キリスト昇架」「キリスト降架」は有名。

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