約400年ほど昔に活躍した画家ヤン・ブリューゲル(父)とは、どのような生涯を送ったのでしょうか?
その生涯と代表的な作品名を、わかりやすくまとめてみました。
ヤン・ブリューゲル(父)の誕生と独り立ちするまで

ヤン・ブリューゲル(父)は、16世紀~17世紀に活躍したベルギー(当時:ブラバント公国)の画家です。
画家だった父ピーテル・ブリューゲルとマーイケン・クック・ファン・アルストの子として1568年(永禄11年)にブリュッセルで誕生しました。ちなみに、祖母、ピーテル(兄弟)、ヤン(息子)、アンブロシウス(息子)も画家でした。ブリューゲル家は少なくとも4代にわたる画家一族でした。
ちなみに父親のピーテル・ブリューゲルは、「バベルの塔」や「雪中の狩人」で有名な画家だよ。
ブリューゲルは若くして両親を失っています。父親はヤン・ブリューゲル(父)【以下、ブリューゲル】が1歳のころに、母親は10歳前後で他界しています。その後は兄と妹とともに祖母の家に身を寄せるようになりました。
ブリューゲルに最初の絵画教育を施したのは、おそらく祖母だったと思われます。祖母とともにブリューゲル兄妹は、アントウェルペン(アントワープ)に引っ越します。
アントウェルペンでブリューゲルは、祖母以外の画家からも絵を学んだことでしょう。
ヤン・ブリューゲル(父)、イタリアへ

1590年(天正18年)から約7年間、ブリューゲルはイタリアで過ごしています。少なくとも、ナポリ、ローマ、ミラノに滞在しました。
イタリア滞在中、ブリューゲルはミラノ大司教だったフェデリコ・ボッロメーオのために絵画を制作しています。
ヤン・ブリューゲル(父)、アントウェルペンに戻ってからと最後

ブリューゲルは1596年(文禄5年・慶長元年)にアントウェルペン(アントワープ)に移ります。
1601年(慶長6年)には市民権を獲得し、聖ルカ組合(芸術家のギルド)の一員となりました。
1602年(慶長7年)にはアントウェルペンの聖ルカ組合・組合長になっています。
1610年(慶長15年)、ブリューゲルはアルブレヒト・フォン・エスターライヒ(南部ネーデルラント総督)夫妻の宮廷画家の地位を得ます。
ブリューゲルは、花や果実などの静物や動物、風景画、聖書を主題にした作品等を遺しました。特に精緻に描かれた花卉画(かきが)で有名になり、「花のブリューゲル」と呼ばれるほどでした。
ヤン・ブリューゲルは、1625年(寛永2年)1月13日にアントウェルペン(アントワープ)で亡くなりました。死因はコレラでした。
ヤン・ブリューゲル(父)の代表的作品名紹介
ヤン・ブリューゲル(父)の作品をいくつかご紹介します。
イッソスの戦い | ルーヴル美術館所蔵(パリ)【1602年】 |
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小さい花卉画-陶製壷の- | 美術史美術所蔵(ウィーン)【1607年頃】 |
楽園のアダムとイブ | マウリッツハイス美術館所蔵(デン・ハーグ)【1615年】 |
「動物の習作(犬)」 | 美術史美術所蔵(ウィーン)【1616年頃】 |
「動物の習作(騾馬、猫、猿)」 | 美術史美術所蔵(ウィーン)【1616年頃】 |
https://artisticpromenade-hw.com/peter-paul-rubens-toha/
まとめ
- ヤン・ブリューゲルは画家の家系に生まれた。
- ヤン・ブリューゲルは若くして父母を失っており、祖母に育ててもらった。
- 花卉画(かきが)で有名に。「花のブリューゲル」と形容される。