「ピアノの魔術師」の異名を持つフランツ・リストとは、どのような生涯を送ったのでしょうか?
わかりやすくご紹介します。
リスト、誕生~ピアニストになるまで

フランツ・リストはオーストリア帝国の支配下にあったハンガリー王国出身で、1811年(文化8年)10月22日に誕生しました。
幼い頃から父親の指導でピアノを学び、1822年(文政5年)にはウィーンに移住します。ウィーン音楽院でピアノ教師のカール・ツェルニーと作曲家のアントニオ・サリエリに師事します。
パリ音楽院にも行こうとしたようですが、フランス人でないことを理由にその願いはかないませんでした。(当時の外国人NGという規則は、どうやらピアノ科だけのルールだったようです。)
リスト、ピアニストとして

1823年(文政6年)には偉大な音楽家同士の交流の機会が訪れます。ウィーンで開催されたリストの演奏会で、かのヴェートーベンに会って称賛されたのです。晩年のヴェートーベンにどれほどの聴力が残されていたのかはわかりませんが、リストがこの当時から派手なパーフォーマンスでピアノを演奏していたとしたら、演出に対する高評価だったのかもしれません。
1831年(天保2年)には、リストに大きな影響を与えたであろう人物の演奏を聴くことになります。その人物とは、ヴァイオリンの超絶技巧で有名なパガニーニです。「ヴァイオリンの鬼才」とも言われたパガニーニ。リストは自身も超絶技巧を目指すことになるのです。
その他にも、ベルリオーズ、ショパン、シューマンとの親交もありました。なんとも豪華な顔ぶれですよね。
ピアニストとしてアイドル級に名を馳せたリストですが、音楽における才能はそれだけにとどまりませんでした。作曲家、指揮者、音楽評論家としても活躍していたのです。活動の舞台は、ドイツ、オーストリアなどのヨーロッパでした。
リスト本人は生まれ故郷のハンガリーを強く意識していたようですが、作風からドイツロマン派に位置づけられています。ハンガリー語もそれほど話せなかったようです。
若きリストの肖像画はとってもハンサム。端正な顔立ちの男性が超絶技巧でピアノを弾くのですから、多くの女性がリストのトリコになったことでしょう。
リスト自身も、いかに演奏している姿がカッコよく見えるかも考えて作曲をしたとか、しないとか…左手を右側にクロスさせることで、顔が観客に見えるようにしたとも言われています。セルフプロデュースの才能もあったのでしょう。
リストのお子さんの一人は、歌劇で有名なリヒャルト・ワーグナーと結婚しています。
リスト、晩年~最期、作品紹介

晩年のリストは病気で苦しんだようです。慢性気管支炎や鬱病、虚血性心疾患、白内障などを患っていました。
そして、1886年(明治19年)7月31日に亡くなりました。
リストの主な作曲リストをご紹介します。一部だけになることをお許しください。
歌劇 | ●ドン・サンシュ、または愛の館 |
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交響曲 | ●3人の人物描写によるファウスト交響曲 ●ダンテの神曲による交響曲 |
交響詩 | ●前奏曲 ●オルフェウス |
ピアノ曲 | ●パガニーニによる大練習曲 ●ハンガリー狂詩曲 ●スペイン狂詩曲 |
まとめ
- リストは「ピアノの魔術師」の異名を持つ名ピアニスト。
- 作曲や指揮、音楽評論としても活躍。
- 作曲した作品としては「ハンガリー狂詩曲」や「スペイン狂詩曲」が有名。