絵画だけでなく多方面に功績を遺したレオナルド・ダ・ヴィンチとは、どのような生涯を送ったのでしょうか?
わかりやすくご紹介します。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、誕生~少年期

まずは、レオナルド・ダ・ヴィンチの名前にまつわる話からしましょう。
「ダ・ヴィンチ」というのは、「ヴィンチ村出身」という意味です。ですからレオナルド・ダ・ヴィンチの名前は、ヴィンチ村出身のレオナルドということになります。
レオナルド・ダ・ヴィンチの故郷、ヴィンチ村があるのはイタリア・トスカーナ州。動画配信で観た「レオナルド・ダ・ヴィンチ-よみがえる幻の名画-」という番組で映し出された風景からは、現在も中世の雰囲気と自然が残る静かな村といった印象を受けました。
レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年(宝徳4年・享徳元年)4月15日に生まれました。学校へは行かず、大自然を通じて学んでいたようです。数多く動物などのスケッチを残しています。
レオナルド・ダ・ヴィンチ自身は、自分を「無学な人」と呼んでいたそうです。学校などで人に教わらずとも、自然や科学などの知識を得ていくというのはまさに天才と呼ぶにふさわしいかもしれません。
沸き上がる好奇心や探求心と観察力がレオナルド・ダ・ヴィンチを偉大ならしめたのかもしれません。
日本では、松下幸之助も尋常小学校を卒業はしていなかったはず。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、フィレンツェに行き弟子になる

レオナルド・ダ・ヴィンチは14歳でヴィンチ村からフィレンツェ(イタリア・トスカーナ州)に移ります。当時のフィレンツェはルネサンスの中心地。有名な画家や彫刻家、建築家たちが集まっていました。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、画家であり彫刻家でもあったアンドレア・デル・ヴェロッキオ(1435年~1488年)に弟子入りします。
フィレンツェでのダヴィンチはノートを持ち歩き、街を行き交う人々の表情を描いていたそうです。どうやら人間の身体の動きに対する関心が高かったようです。こういった習慣は、後のレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画作品に大いに反映されていると感じますよね。
アンドレア・デル・ヴェロッキオに弟子入りしたレオナルド・ダ・ヴィンチは、師匠の作品の一部を描いていました。

「キリストの洗礼」というヴェロッキオの作品。この作品でアンドレア・デル・ヴェロッキオが描いたのはイエス・キリストとバプテスマのヨハネ。
レオナルド・ダ・ヴィンチは一番左の天使を描きました。
顔を斜め横に向け、イエス・キリストを見上げつつひざまずく。当時、このようなポーズは斬新なものだったのです。
その結果、師匠のアンドレア・デル・ヴェロッキオは画家を辞めてしまいます。弟子が師を凌ぐ力を持ったことが影響したのだと思います。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミラノで多彩な能力を発揮!

レオナルド・ダ・ヴィンチの時代、イタリア・ミラノはまさに文化の中心であり流行の最先端の街でした。
レオナルド・ダ・ヴィンチの経済的支援者(パトロン)は、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ(1452年~1508年)でした。
ミラノにおけるダ・ヴィンチの活動のいくつかを紹介します。
- 戦車の設計を書き記す。
- 化学的に水の流れを研究する。
- 「ウィトルウィウス的人体図」作成する。
「ウィトルウィウス的人体図」というのは、円と正方形の中に両手を広げた人間の身体が描かれたアレです。私は「レオナルド・ダ・ヴィンチ-よみがえる幻の名画-」を観て、初めてあの絵の名称を知りました。
「ウィトルウィウス的人体図」についてもうひとつ。番組の中で伝記作家チャールズ・ニコル氏は、あの人体図はレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像だと考えている語っていました。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミラノで最後の晩餐を描く!

1495年(明応4年)、ダ・ビンチは43歳のときにミラノにて「最後の晩餐」(1495年~1498年頃)を描き始めます。
「最後の晩餐」の制作には、レオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンがサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院を援助していたことが関係しています。
「最後の晩餐」にとって、修復作業は切っても切れない関係です。その理由は後述しますね。
修復に携わった経験のあるピニン・ブランビッラ・バルチローン氏は、「1日にほんのわずかしか進まなかった。」といった主旨のことを番組で語っていました。
「最後の晩餐」には、イエス・キリストとその弟子(使徒)が描かれています。
夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」
出典:『新約聖書』マタイによる福音書 第26章20~21節
44ページ
イエス・キリストからこのように告げられた使徒たちは、自分なのではないかと心配します。ただ一人を除いては。
それからイエス・キリストは、ゲツセマネの園における贖いと十字架上での死に先立って、使徒たちにパンと水を祝福し与えたのでした。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである。」また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。・・・」
出典:『新約聖書』マタイによる福音書 第26章26~28節
44ページ
レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた「最後の晩餐」には、このときの使徒たちの心情を反映するかのような動きが描写されています。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ヴェネツィアからローマ、そしてフィレンツェに

1499年(明応8年)、ダ・ヴィンチは47歳でミラノを去りヴェネツィアに行きます。
「水の都」ヴェネツィアでも、ダ・ヴィンチらしい研究をしています。ヴェネツィアを海水から街を守る研究です。
ローマでは建築の設計を、そしてフィレンツェでは河の流れを変えて船が通れるようにする計画をしています。
フィレンツェに戻ったとき、レオナルド・ダ・ヴィンチは50代になっていました。そして絹織物商人の妻の肖像画を描くように依頼されます。
それが「モナ・リザ」(1503年~1506年頃 パリ・ルーブル美術館蔵)でした。

私自身、「最後の晩餐」ほどではありませんが、「モナ・リザ」も観てみたい気持ちはあります。
「モナ・リザ」は、人物の輪郭がハッキリとは描かれていないためか、何とも言えない不思議な雰囲気を持つ肖像画ですよね。
描かれた当時はどうだったのかわかりませんが、ちょっと暗い雰囲気の作品です。美しいといえばそうでしょうが、それよりも印象的なのは「何かを語りかけているような気持ちにさせられる」肖像画だということです。
結局のところダ・ヴィンチは、「モナ・リザ」を依頼人に渡すことなくフランスに持って行ってしまいます。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、フランスで最期を迎える

レオナルド・ダ・ヴィンチは、フランス国王フラソワ1世の招待によりフランスに行きます。
フラソワ1世は、ダ・ヴィンチに作品を描くようにとは言わなかったようです。偉大なる画家であり科学者、建築家でもあったダ・ヴィンチを保護していたのでしょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、フラソワ1世に惜しまれつつ1519年(永正16年)5月2日に亡くなりました。67歳でした。
まとめ
- イタリア・トスカーナ州ヴィンチ村の出身。
- 「最後の晩餐」「モナ・リザ」等の名作を遺している。
- 学校教育はほとんど受けてはいないが、画家以外にも建築、解剖学、物理学等で幅広く才能を発揮。