水彩や油彩で風景画を描いたイギリスの画家J.M.W.ターナー。
その生涯をわかりやすくご紹介します。
ロンドンで生まれ、ロンドンでその生涯を閉じたターナーに迫ります。
J.M.W.ターナーとは、誕生~修業時代

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは、水彩・油彩で主に風景を描いたイギリスの画家(ロマン派)です。
ターナーは1775年(安永4年)4月23日、イギリス・ロンドンで生まれました。父親はコヴェント・ガーデンで理髪店を営んでいました。母親は1804年(享和4年・文化元年)に亡くなっています。
ターナーはロンドンで育っていますが、時折イングランド南部の親戚宅に短期滞在をしていました。(コヴェント・ガーデンには芸術家が多く住んでいたようです。)
幼い頃のターナーは、ほとんど学校での教育を受けていません。建築家トマス・ハードウィックの建築図画を描く仕事をしていました。
1789年(天明9年・寛政元年)、ロンドンの風景を専門とする地誌図で有名なトマス・モールトンのアトリエに入り、同年、ロイヤル・アカデミーの付属美術学校に入学します。ロイヤル・アカデミーでは、素描と理論に重きを置いた授業が行なわれていました。
ターナーは模範的な学生で、素描と水彩画を描いていました。油彩画に取り組むのはもう少し先のことです。
ターナーの学び方について、ターナー展の図録に興味深い解説があるのでご紹介します。
素描でも水彩でも、あるいは後に油彩においても、彼は型を勉強し、模写することによってその技法を学んだ。
出典:『テート・ギャラリー所蔵 ターナー展 図録』
デイヴィッド・B・ブラウン著 深谷克典訳 13ページ
画家を志す人が、巨匠たちの作品を模写することは驚くことではありません
ここで注目したのは、「型を勉強し」の部分。具体的な方法はわかりませんが、作品を観察し模写する過程で、芸術家の技法や構図、筆のタッチなどを読み取り、体系化する能力に秀でていたのではないかと思います。
この「型」を身に付けることで、自身の作品中で自在に応用することを実現できたのでしょう。日本の武道や芸術の道における「守破離(しゅはり)」に通じるものを感じました。
1790年代中頃になると、ターナーは外科医トマス・モンロー氏宅で行なわれる集いに加わるようになります。
トマス・モンロー氏は素描画家でありコレクターでもあった人物です。ターナーはそこで、素描画の作品研究や模写に励んでいました。
ターナーとロイヤル・アカデミー

1796年(寛政8年)、ターナーは油彩画「海上の漁師たち」をロイヤル・アカデミーに出品します。ロイヤル・アカデミーへの出品は水彩画の方が多かったようです。
ターナーは24歳でロイヤル・アカデミー準会員になります。1799年(寛政11年)のことでした。さらに1802年(享和2年)には、正会員となっています。
ターナー、ヨーロッパ旅行と最期

ターナーは1802年(享和2年)フランス、スイスを旅行します。他にも2度に渡りイタリアを旅行しています。1819年(文政2年)と1828年(文政11年)です。
これらの海外旅行で目にしたアルプスの大自然やイタリアの都市は、風景を描いたターナーにとって、さぞかし刺激的であったことでしょう。
特に1819年のイタリア旅行はターナーの転機になったと言われています。イタリアの自然や青空、太陽の光などの色彩に魅せられたようです。
ターナーが尊敬したと言われる絵画の巨匠たちも紹介しておきましょう。
- クロード・ロラン
- アルベルト・カイプ
- レンブラント・ファン・レイン
ターナーは美術だけでなく文学や歴史といった分野でも造詣が深かったようです。
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは、1851年(嘉永4年)12月19日にロンドンで亡くなりました。
なびさんぽで紹介したターナー作品
【なびさんぽ】でご紹介しているターナーの作品は次の通りです。
まとめ
- J.M.W.ターナーはロンドン生まれのイギリスの画家。
- ターナーはイタリア・ベネツィアを愛した。
- ターナーは、油彩画・水彩画の両方で活躍した。