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すぐわかる!スメタナとは チェコ音楽の創始者として知られ、モルダウを含む「わが祖国」で有名な音楽家

すぐわかる!スメタナとは
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チェコ音楽の創始者として知られ、モルダウを含む「わが祖国」で有名な音楽家スメタナとは、どのような生涯を送った音楽家なのでしょうか?

わかりやすくご紹介します。

スメタナとは / チェコ音楽の創始者

プラハ城とヴルタヴァ(モルダウ)川プラハ城とヴルタヴァ(モルダウ)川

フリードリヒ・スメタナ(ドイツ語名)は、チェコ出身の作曲家でありピアニストです。オーケストラの指揮も行なっていました。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
私のスメタナに対する印象は、もっぱら作曲家のイメージが濃厚です。

スメタナの生きた時代、チェコはオーストリア帝国の支配下にありました。スメタナ自身、チェコの国家独立を願っていました。

チェコに対する愛国心は、スメタナの音楽性にも影響を与えることになります。

チェコの民族主義が深く関係していたのでしょう。スメタナは国民楽派という、民族主義的な音楽スタイルの先駆け的存在となりました。

これがスメタナを「チェコ音楽の創始者」と言わしめる所以(ゆえん)です。

スメタナ、誕生~青年期

チェコの町並み【市庁舎広場】チェコの町並み【市庁舎広場】

まずはスメタナの名前についてです。

私個人としては「フリードリヒ」として記憶していましたが、チェコ語では「ベドルジハ」です。「フリードリヒ」はドイツ語の名前です。(いずれにしてもここではカタカナ表記ですが…。)

スメタナは1824年(文政7年)3月2日で、オーストリア帝国の支配下にあったチェコのリトミシュル(ボヘミア北部の街)で誕生しました。

リトミシュルはプラハの東に位置し、その起源は1200年頃にまで遡ります。ボヘミアとモラヴィア(ドイツ語:メーレン)間における貿易の要所でした。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
リトミシュルには、現在世界遺産に登録されているリトミシュル城があるんだよ!

スメタナの父親はビール醸造業を生業としていて、3度結婚した人物です。スメタナは3番目の奥さんの子供で、異母兄弟を含めて兄弟・姉妹の多い家庭で育ったのでした。

当時スメタナの育った地域はハプスブルク家の制度下にあり、公用語はドイツ語でした。

そのため、スメタナは歳をとるまで正式なチェコ語を話せなかったようです。

音楽好きでヴァイオリンを習った経験のある父親の影響があったのでしょう。

幼い頃のスメタナはまずヴァイオリンで、その後ピアノでも才能を発揮します。1830年(文政13年・天保元年)、当時6歳のスメタナはピアノ公演も経験済みでした。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
スメタナ自身は、ヴァイオリンよりもピアノが気に入っていたんだ。

1831年(天保2年)にスメタナ一家は、父親の仕事の関係でボヘミア南部の街インドジフーフ・フラデツに引っ越します。

この地でスメタナは、一般的な教育と並行してヴァイオリンとピアノを学びました。さらには、ピアニスト兼ヴァイオリニストでもあったフランチシェック・イカヴェッツから作曲も学んだのでした。

数年後、父親が仕事を辞めボヘミアの南東エリアの農場に引っ越します。

その地に通えそうな学校がなかった関係で、スメタナは親元を離れることに。

しかし家族が恋しく、勉強どころではなくなってしまったため、再度転校しています。その後はホームシック問題も影を潜め、良い時間を過ごせたようです。

スメタナ、プラハへ

プラハの街並みプラハの街並み

友人カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキー(後に詩人、作家、政治家)から影響を受けたスメタナは、プラハで学ぶことを希望します。

当初は父親の反対にあったものの、1839年(天保10年)からスメタナはプラハのアカデミック・グラマー・スクールで学ぶことに。ところが学校や友人と馴染めずに、学校に行かなくなってしまうのでした。

スメタナは学校へは行かずコンサートやオペラを観劇し、アマチュアで弦楽四重奏のグループにも参加します。そして自分には音楽家になることが最善の選択だと確信したのでした。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
スメタナの選択には、ピアニストのフランツ・リストのリサイタルも影響しているみたいだよ。

ところが、学校に通っていないことが父親の知るところに…父親にプラハから連れ戻されてしまったのでした。

スメタナ、再びプラハへ

プラハ城からの眺めプラハ城からの眺め

1840年(天保11年)、スメタナは従弟を頼りボヘミア西部の街プルゼニに移ります。この地で恋も経験したスメタナは、その女性(カテジナ)のために作曲も行なっていました。

そして1843年(天保14年)の夏、わずかばかりのお金を手に再びプラハへと戻るスメタナ。目的はもちろん音楽の勉強です。

カテジナの母親の助けもあり、プラハ音楽大学の長ヨゼフ・プロクシュへの紹介を受けます。スメタナの音楽指導をしたのは、このドイツ系チェコ人で作曲家でありピアニストでもあったヨゼフ・プロクシュでした。

1844年(天保15年・弘化元年)からは、貴族の家族に音楽を教える職を得ることができました。

それから数年間、音楽理論と作曲法を学んだスメタナは、1847年(弘化4年)に音楽教師を辞し、演奏旅行で西ボヘミアへ赴くのでした。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
スメタナはベルリオーズのコンサートを鑑賞したり、シューマンに面会したこともあったんだよ!
なんだかすごいなぁ。

プラハ時代のスメタナは作曲活動も行なっていたんだ。
作品には民族主義的な要素がすでに表れていたみたいだよ。

残念ながら西ボヘミアへの演奏旅行は、想い描いたような成果を得ることはできなかったようです。

プラハへと戻ったスメタナは、音楽を教え、演奏会の伴奏などもつとめつつ作曲活動に励むのでした。

1848年(弘化5年・嘉永元年)の夏の終わりごろ、スメタナは十数名の生徒を集めピアノ学校を開きます。

学校のコンサートにおけるスメタナの評判は上々で、プラハにおける音楽家として経済的な安定も手にしたのでした。同年、スメタナはカテジナと結婚します。

時代は混乱へと向かっていましたが、スメタナの学校の評判はチェコの民族主義者の間で高まっていきました。

1849年(嘉永2年)、スメタナは自身の学校をカテジナの両親の家へと場所を移します。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
学校にはリストも訪問していたみたいだよ。

1850年(嘉永3年)スメタナは、前オーストリア皇帝で退位後にプラハ城に住んでしたフェルディナント1世の常任宮廷ピアニストの職を得ます。

スメタナはチェコの独立を志していたはずですが、そのことは問われなかったのでしょうね。

宮廷ピアニスト、ピアノ学校の経営と指導、作曲活動と、スメタナの音楽活動はますます活発になっていきました。

しかし…スメタナは複数の不幸に見舞われます。

1854年(嘉永7年・安政元年)に次女を、1855年(安政2年)には長女が他界したのです。

1856年(安政3年)には四女が誕生しますが、間もなく他界してしまいました。さらには妻(カテジナ)も結核と診断されます。

この時期に作曲した「ピアノ三重奏曲ト短調」も評論家の酷評されることに…

わたなびはじめ
わたなびはじめ
「ピアノ三重奏曲ト短調」だけれど、現在は打って変わって傑作とされているんだよ。

さまざまな出来事に打ちのめされたスメタナは、プラハを離れる選択をしたのでした。

スメタナ、スウェーデンへ

スウェーデン・ヨーテボリスウェーデン・ヨーテボリ

スメタナは祖国を離れ、スウェーデン・ヨーテボリに移ります。このとき妻であるカテジナは同伴していません。

スメタナはここでも音楽学校を開きました。

移住したスウェーデンで、音楽の教師、さらには聖歌隊指揮者として名を馳せることになったのです。時期を同じくして管弦楽団用の作曲も始めています。

1857年(安政4年)、カテジナにあうためにプラハに戻ったスメタナ。秋には妻と娘とともにスウェーデン・ヨーテボリへと戻ります。

体調が日毎に悪化していく妻のカテジナは、故郷に帰ることを希望します。そして1859年(安政6年)の春にドレスデンで他界しました。

その後スメタナは10歳以上年下の女性バルボラ(ベッティーナ)と恋に落ち、1860年(安政7年・万延元年)7月10日に結婚します。

スウェーデン王家の招待でストックホルムに行きピアノ演奏をする等、この時期のスメタナの人生は花が咲いたような喜ばしい状態を迎えます。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
世の中の情勢として、ハプスブルク家も弱体化し影響力は弱まっていったんだ。

スメタナは演奏旅行(オランダ、ドイツ)に赴きましたが、ピアニストとしての名声を確立することはできず、挫折も味わっていました。

スメタナの心の中では「プラハで音楽家として成功すること」が大きな場所を占めるようになったのでした。

スメタナ、3度目のプラハチャレンジ

プラハの旧市街地プラハの旧市街地

1861年(万延2年・文久元年)、チェコ・オペラの本拠地として、仮劇場建設が発表されます。

この発表をスメタナは、自身がオペラにチャレンジする好機と考えました。そこで仮劇場の指揮者になることを望みましたが、別の人物が指揮者に就任。

それでもスメタナはめげずに、オペラのコンテストに挑みます。オペラのコンテストで優勝するまでには約3年間の時間が必要でした。その過程で自分のスタイルを形作っていったのです。

1863年(文久3年)の春、スメタナは歌劇「ボヘミアのブランデンブルク人」のスコアを出版しました。

1866年(慶応2年)、プロイセン侵略軍に狙われる危険を感じたスメタナは一時プラハを離れます。
同年8月23日にはプラハ条約が締結され、その後まもなくスメタナはプラハへと戻るのでした。

そして待望の仮劇場・首席指揮者の職を得たのでした。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
すぐわかる!アントニン・レオポルト・ドヴォルザークとは|その生涯と代表作』でも紹介したけれど、このオーケストラにはヴィオラ奏者としてドヴォルザークが在籍していたんだ。

まだの人は、ぜひ読んでみて!

ところが…首席指揮者としてのスメタナの評価はあまり高まることはありませんでした。それどころか反対勢力の影響で解任の危機に…

しかしスメタナを擁護する人々により、1873年(明治6年)にスメタナは芸術監督として再雇用され、より高い給料で仮劇場での地位を保ちました。

スメタナの失聴と晩年

プラハとヴァルタヴァ河プラハとヴァルタヴァ河

その後、スメタナには体調面での問題が生じてきます。

耳に異常が現れ始めたのです。その影響により、仮劇場も辞めることに…

1874年(明治7年)、スメタナは聴力を完全に失ってしまいました。

ところがそれ以降も作曲活動を継続するのですから、「音楽」しいては「故国」に対する強い想いを感じます。

モルダウを含む「わが祖国」を作曲したのは、1874年(明治7年)~1879年(明治12年)にかけてです。第1曲「ヴィシェフラド」の構想は1872年(明治5年)から始まっていたとはいえ、聴力が失われていく不安の中での作曲となったことでしょう。

「わが祖国」の完成から数年後の1884(明治17年)年、スメタナは精神疾病を伴う病で保護施設に入れられ、5月12日に亡くなりました。

スメタナの代表曲

スメタナの作曲した楽曲をいくつか列挙します。

1855年
(安政2年)
ピアノ三重奏曲
1862年
(文久2年)
歌劇「ボヘミアのブランデンブルク人」
1863年
(文久3年)
歌劇「売られた花嫁」
1874~1879年
(明治7年~明治12年)
連作交響詩「わが祖国」
1876年
(明治9年)
弦楽四重奏曲 第1番「わが生涯より」

まとめ

スメタナとは
  1. スメタナは「チェコ音楽の創始者」と称えられる音楽家。
  2. 晩年には失聴や精神疾患を患う。
  3. 失聴後に「わが祖国」を完成させている。

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