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すぐわかる!ヨハン・シュトラウス2世とは

すぐわかる!ヨハン・シュトラウス2世とは
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「ワルツ王」とも呼ばれ、オーストリアの作曲家であり指揮者でもあったヨハン・シュトラウス2世とは、どのような生涯を送ったのでしょうか?

わかりやすくご紹介します。

ヨハン・シュトラウス2世、誕生~音楽家への道

ウィーンの街並みウィーンの街並み

ヨハン・シュトラウス2世が誕生したのは1825年(文政8年)10月25日。ウィーンで生まれました。父親はヨハン・シュトラウス1世、弟にはヨーゼフ・シュトラウスとエドゥアルト・シュトラウス1世、加えて甥も作曲家という音楽一家に生まれました。(音楽家の父のもとに生まれ、子孫も音楽家になったと表現するべきでしょう。)

わたなびはじめ
わたなびはじめ
毎年元旦に開催されるウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートはシュトラウス一家の作品をメインとして構成されているんだ。

父親のヨハン・シュトラウス1世は、家族に対しても厳しい性格の人だったようです。息子が音楽家になることには後ろ向きでした。そのため、教養としてのピアノを除いては楽器にも触れさせなかったとか…

そのような環境でヨハン・シュトラウス2世と弟ヨーゼフは、父の楽団の演奏を耳コピしてピアノで弾いていたのです。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
てっきり英才教育を受けていたと思ったな。
難しい環境でも才能を伸ばす人っているんだね。

ヨハン・シュトラウス2世は6歳の頃には短いワルツを作曲しています。8歳の頃には近所の子供にピアノを教え、お金を稼いでいました。保護者から月謝をもらっていたのか、子供から小遣い程度の金額を取っていたのかはわかりませんが、貯めたお金でシュトラウス2世はヴァイオリンを購入しました。

父に憧れて内緒で購入したヴァイオリンでしたが、ある日そのことがバレて壊されてします。母親はそんなヨハン・シュトラウス2世が立派な音楽家になるとを願い、新しいヴァイオリンを与えました。

生活費も家に入れず、別の女性のもとに入り浸るヨハン・シュトラウス1世は、家庭を顧みなかったと言われても仕方のない男性でした。そして息子シュトラウス2世の音楽家への道を妨害します。シュトラウス2世にヴァイオリンを指導した楽団員を解雇するほどに。

1842年(天保13年 )まで簿記等を学んだ技師学校を辞め、音楽家になることに専念する決意をしたシュトラウス2世。彼はオルガン奏者ヨーゼフ・ドレクスラーの下で音楽の基礎を固めようとしました。

ヨハン・シュトラウス2世、音楽家として

オーストリア・ウィーンオーストリア・ウィーン

ヨーゼフ・ドレクスラーの下での修業を1844年(天保15年・弘化元年)に終えたヨハン・シュトラウス2世(18歳)は、音楽家としてのデビューに備えます。

父親のシュトラウス1世は当時のウィーンのダンス音楽界における確固たる地位を築いていました。シュトラウス1世にとっては、息子シュトラウス2世の音楽家デビューは快いものではありません。様々な妨害を行なったのでした。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
自分の息子相手とはいえ、自身の権力や地位を守りたかったのかもしれないね。
ちょっと悲しい~

さらにヨハン・シュトラウス2世の音楽家への道を阻む壁がもう1つありました。それは、20歳以上でなければ音楽家になれないという当時の法律でした。

父親の妨害工作に立ち向かい若手の音楽家を集め、いい記事を書いてくれる新聞社との契約をし、役所では父が家庭を顧みないため家族を養う必要があると訴えたシュトラウス2世。

親子関係の良し悪しは別として、世間からは有名人の息子として認識されたシュトラウス2世の説得により、心を動かされた役人は音楽家となることを認めたのでした。さらには、家族のために努力するシュトラウス2世の話は美談として広まっていったのです。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
シュトラウス1世にしたら、最悪の結果だったんだろうな。
世間は息子に同情的だし、音楽家にもなった。さらに自分は家庭を顧みない人間だと知られてしまったんだら。

かくしてヨハン・シュトラウス2世は指揮者・作曲家としてデビューを果たしました。

1844年(天保15年・弘化元年)10月15日、シェーンブルン宮殿の近くにあるホール「ドムマイヤー・カジノ」で演奏会が開催されたのです。父親の作品もプログラムに入っていましたが、自身が作曲した作品も披露されています。ヴァイオリンを演奏しながら指揮をするスタイルは父と同じ。結果は大成功でした。

これにより父と息子が同じ土俵に立ったことになります。そして、ライバル関係が明確化することに。その間、シュトラウス2世の両親は正式に離婚。その後父子は和解しています。

ところが、当時のウィーンを取り巻く情勢は不穏さを増していきます。

ヨハン・シュトラウス2世、革命と父親の死

オーストリア・ウィーン【ドナウ川】オーストリア・ウィーン【ドナウ川】

ヨハン・シュトラウス2世が東欧に遠征旅行に出かけていた期間中に、1848年革命が勃発。翌年まで及んだこの革命により、ウィーン体制に激震が走ります。シュトラウス2世はすぐさまオーストリアに戻り、ウィーンの南に位置する街でことの成り行きを見極めようとしました。

そして革命側の支持者としてウィーンに戻ります。ヨハン・シュトラウス2世はフランスの「ラ・マルセイエーズ」の演奏を行ないますが、これは当時のオーストリアでは禁じられていた行為でした。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
この演奏は、皇帝(宮廷)側の人たちの心象を悪くしただろうね。

1848年(弘化5年・嘉永元年)12月2日、フランツ・ヨーゼフ1世が皇帝に即位。

すると…大胆にもヨハン・シュトラウス2世は、新皇帝を称える楽曲を発表したのです。残念ながらこの作品は皇帝側から無視されるだけでなく、シュトラウス2世は革命に加担したとして警察への出頭を余儀なくされます。

1849年(嘉永2年)、父ヨハン・シュトラウス1世が他界します。

ヨハン・シュトラウス2世は、父親が運営していた楽団を自身の楽団に吸収。これにより、父と二分されていた仕事の依頼が自身に集中することになりました。その分、忙しさは増したことでしょう。

1851年(嘉永4年)、宮廷に疎まれ宮廷舞踏会音楽監督になれなかったヨハン・シュトラウス2世に転機が訪れます。カドリーユ「万歳!」を作曲し、皇帝に献呈したのです。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
カドリーユは、四組の男女が四角状になって踊るダンスのことだよ。

翌1852年(嘉永5年)の謝肉祭(カーニバル)では、宮廷のダンスの指揮をする機会を得ました。これを機に作曲を通じてハプスブルク家との関係を強めていきます。(時間はかかりましたが、1863年(文久3年)には宮廷舞踏会音楽監督に就任するのでした)

1850年代のヨハン・シュトラウス2世についての懸念材料は体調でした。忙しさが影響したのか病気を患ったり、命の危機的状況に陥ることもあったのです。

シュトラウス2世の体調面をカバーしたのは弟の存在でした。弟たちにとっては音楽家になる道が開けたのです。

ヨハン・シュトラウス2世、オーストリアから海外へ

ロシア・サンクトペテルブルクの街並みロシア・サンクトペテルブルクの街並み

1856年(安政3年)、ヨハン・シュトラウス2世はロシアで演奏会を開くようになります。サンクトペテルブルクから約30km南のパヴロフスクという街でのことです。これにより、経済面での心配は減少していきました。

ロシア宮廷での評判も良く、戴冠式や祝賀行事にも呼ばれるほどになったヨハン・シュトラウス2世は、ロシア・パヴロフスクでの演奏会で大きな財を成しました。

1870年(明治3年)、シュトラウス2世は母と弟のヨーゼフを亡くします。身内の死は精神面に影響を及ぼし、作曲に対する意欲減退へとつながりました。

そんな折、家族に勧められてオペレッタの制作へと乗り出します。(後に「こうもり」や「ジプシー男爵」といった名作が誕生するのでした)

1872年(明治5年)、ヨハン・シュトラウス2世はアメリカの独立100周年を記念する行事で指揮者としてボストンへ招かれます。ボストンだけでなくニューヨークでも演奏会が行なわれ、いずれも大成功。

ヨハン・シュトラウス2世、晩年~最期

ウィーン楽友協会ウィーン楽友協会

1894年(明治27年)、ヨハン・シュトラウス2世の音楽家としての50周年を祝うイベントが開催されました。アン・デア・ウィーン劇場、ウィーン宮廷歌劇場、ウィーン楽友協会といった有名な会場で開催されたのです。ヨハン・シュトラウス2世の人気は絶頂を極めます。

それから数年後、ヨハン・シュトラウス2世は肺炎を患い、1899年(明治32年)6月3日に73歳で亡くなりました。

ヨハン・シュトラウス2世の作品

ヨハン・シュトラウス記念像ヨハン・シュトラウス記念像

ヨハン・シュトラウス2世はワルツ、ポルカ、ポルカ・マズルカ、行進曲、バレエ、オペレッタ等、数多くの作品を遺しました。ここでは、その一部をご紹介します。

ワルツ 美しく青きドナウ
「ウィーンの森の物語」
「ウィーン気質」
「皇帝円舞曲」
ポルカ・マズルカ 「町と田舎」
ポルカ・シュネル 「雷鳴と電光」
行進曲 「皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲」
バレエ 「灰かぶり姫」
オペレッタ こうもり
ジプシー男爵
オペラ 「騎士パズマン」

まとめ

ヨハン・シュトラウス2世とは
  1. オーストリアを代表する作曲家、「ワルツ王」「オペレッタ王」。
  2. 音楽家を父に持つが、教養としてのピアノ以外は禁じられて育った。
  3. 「美しく青きドナウ」「こうもり」「ジプシー男爵」等、名作を多数残した作曲家。

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