リヒャルト・ワーグナーは19世紀のドイツを代表する作曲家であり指揮者です。
ワーグナーの代名詞と言えば、やはり「歌劇(オペラ)」。「楽劇王」と呼ばれるほどの存在です。
ここでは音楽家リヒャルト・ワーグナーの生涯をわかりやすくご紹介します。
リヒャルト・ワーグナー、誕生~青年期
ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーは1813年(文化10年)5月22日、ザクセン王国のライプツィヒ(ドイツ)に生まれました。
父親は警察に努める役人でした。フランス語が堪能で、駐屯していたフランス軍の通訳をすることもありました。しかし、ワーグナーの誕生後、間もなく他界します。ワーグナーの母親は俳優をしていた男性と再婚しています。
歌劇「魔弾の射手」で有名なカール・マリア・フォン・ウェーバーとの親交があったワーグナー家。ドレスデン宮廷歌劇場音楽監督だったウェーバーはワーグナーにとってあこがれの存在でした。
音楽好きの家族で育ったワーグナーですが、音楽家になる決意をしたのは15歳のときでした。ベートーヴェンの作品に影響されたようです。
1831年(天保2年)、ワーグナーはライプツィヒ大学に入学しますが、卒業することなく中退。その後、聖トーマス教会のカントル(キリスト教音楽の指揮者)を勤めていたテオドール・ヴァインリヒから対位法作曲の指導を受けました。
1832年(天保3年)には交響曲 第1番を作曲しています。1834年(天保5年)にはマクデブルクのベートマン劇団の指揮者に就任しました。しかし…2年後にはベートマン劇団が解散してしまいます。その後は指揮者として、ドレスデン、帝政ロシア領リガ(現在 ラトビア)、ロンドンと各地の劇場を転々としていました。
リヒャルト・ワーグナー、ザクセン国立歌劇場管弦楽団の指揮者就任
ワーグナーが注目されるようになったのは、1842年(天保13年)に初演された「リエンツィ」の大成功によるものでした。それがキッカケで、ザクセン国立歌劇場管弦楽団の指揮者に就任します。
1845年(弘化2年)~1848年(弘化5年・嘉永元年)にかけて、ワーグナーは歌劇「タンホイザー」や「ローエングリン」を作曲しました。
この間、興味深いのはベートヴェンの第九との関わりです。1846年(弘化3年)にワーグナーは、復活祭の直前の日曜日に開催される特別演奏会でベートーヴェンの交響曲第9番を上演しようとしました。ところがこの当時、第九は忘れられた存在になっていたのです。反対に合いながらもワーグナーは第九を演奏します。その結果は大成功。
ワーグナーの功績だったんだね。
楽団の労働条件の改善等を要求したワーグナーでしたが受け入れてもらえず、1847年(弘化4年)にザクセン国立歌劇場管弦楽団の指揮者を辞任しました。
リヒャルト・ワーグナー、革命と亡命
1848年(弘化5年・嘉永元年)、ワーグナーはドレスデンでのドイツ三月革命の参加しましたが、失敗に終わり指名手配されることに。およそ9年間、スイスに亡命しています。この期間中も作曲活動は継続していました。
1859年(安政6年)には歌劇「トリスタンとイゾルデ」を完成させています。
リヒャルト・ワーグナー、革命と亡命、バイロイトへ
1864年(文久4年・元治元年)、ワーグナーはバイエルン国王ルートヴィヒ2世から招待を受けます。ルートヴィヒ2世はワーグナー好きで有名です。
ワーグナーはオペラの制作にも力を入れます。1865年(元治2年・慶応元年)には「パルジファル」(台本 第1草稿)、1867年(慶応3年)には「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、1874年(明治7年)には「ニーベルングの指環」を手掛けています。
ルートヴィヒ2世の後援により、1876年(明治9年)にはバイロイト祝祭劇場が完成します。バイロイトにある木造のオペラハウスで、ワーグナー作品のために建てられた劇場です。
ワーグナーは1883年(明治16年)2月13日に、ヴェネツィアでの旅行中に亡くなりました。
リヒャルト・ワーグナーの作品
ワーグナーの作品の一部をご紹介します。
歌劇・楽劇 | ●「さまよえるオランダ人」【1842年完成】 ●「タンホイザー」【1845年完成】 ●「ローエングリン」【1848年完成】 ●「トリスタンとイゾルデ」【1859年完成】 ●「ニュルンベルクのマイスタージンガー」【1867年完成】 ●「ニーベルングの指環」【1874年完成】 |
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序曲 | ●「ルール・ブリタニア」【1837年完成】 |
交響曲 | ●「交響曲第1番 ハ長調」【1832年完成】 |
まとめ
- ワーグナーは数々のオペラを作曲した「楽劇王」。
- 忘れられていたベートーヴェンの交響曲第9番が名曲の地位を確立するキッカケを作った。
- バイロイト祝祭劇場はワーグナー作品のために造られた劇場。