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すぐわかる!リムスキー=コルサコフとは

すぐわかる!リムスキー=コルサコフとは
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19世紀のロシアの音楽家リムスキー=コルサコフとは、どのような生涯を送ったのでしょうか?

ロシアの民族主義的な作曲家の集団「ロシア五人組」のひとりだったリムスキー=コルサコフについて、わかりやすくご紹介します。

リムスキー=コルサコフとは

サンクトペテルブルクサンクトペテルブルク。

ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフが生まれたのはチフヴィンカ川の両岸に広がるティフヴィンという町で、1844年(天保15年・弘化元年)3月18日のことでした。

リムスキー=コルサコフは、幼い頃から音楽の才能がみられたようです。

しかし、コルサコフ家は軍人貴族の家でもあり、リムスキー=コルサコフは12歳のときに海軍兵学校(サンクトペテルブルク)に入学します。その後はロシア軍人となり、海軍の海外遠征にも参加経験があります。

1859年(安政6年)でピアノをはじめています。演奏家(ピアニスト)を目指すには、遅い年齢ですよね。しかし、その後リムスキー=コルサコフが目指すのは、演奏家ではなく作曲家です。

ピアノをはじめた2年後の1861年(万延2年・文久元年)に、リムスキー=コルサコフはバラキレフ(のちのロシア五人組のひとり)と出会います。リムスキー=コルサコフは航海の演習がない期間にバラキレフから作曲を学びます。

ある意味、バラキレフとの出会いが、作曲家リムスキー=コルサコフ誕生のキッカケと言えるでしょう。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
すごい出会いだよね。

リムスキー=コルサコフは海軍に所属している期間に交響曲第1番を完成させます。1865年(元治2年・慶応元年)に行なわれた、交響曲第1番の初演は成功。

リムスキー=コルサコフは、1873年(明治6年)まで海軍に在籍していました。

リムスキー=コルサコフの音楽や作曲に関する学習は、いわゆる音楽学校で学ぶような正式なものではありませんでした。独学とロシア五人組のメンバーによる集団での学習によるところが大きかったのです。

にもかかわらず(失礼な言い回しかもしれませんが...)、ペテルブルク音楽院で作曲及び管弦楽法の教授を依頼されます。

ペテルブルク音楽院といえば、1862年(文久2年)に開校したロシアの音楽大学で、チャイコフスキーやプロコフィエフ、ショスタコーヴィチといった音楽家を世に送り出した名門校です。リムスキー=コルサコフの作曲と管弦楽法に対する見識の高さをうかがい知ることができますよね。

1889年(明治22年)にパリで国博覧会が開催されます。その際に行なわれた、ロシア音楽のコンサートでは指揮者を務めました。

リムスキー=コルサコフは晩年に狭心症を患い、リューベンスクで1908年(明治41年)6月21日に亡くなりました。

リムスキー=コルサコフの作品

ロシア・サンクトペテルブルクの街並みロシア・サンクトペテルブルクの街並み

リムスキー=コルサコフの作品の一部をご紹介します。

歌劇「クリスマス・イヴ」 制作:1894~1895年(明治27年~明治28年)
歌劇「皇帝の花嫁」 制作:1898年(明治31年)
スペイン奇想曲 制作:1887年(明治20年)
交響組曲「シェエラザード」 制作:1888年(明治21年)
わたなびはじめ
わたなびはじめ
交響組曲「シェエラザード」は個人的に大好き!

まとめ

リムスキー=コルサコフとは
  1. リムスキー=コルサコフは、音楽学校での正式な音楽教育を受けていない。li>
  2. 独学とロシア五人組のメンバーから音楽を学んでいた。
  3. ペテルブルク音楽院で作曲及び管弦楽法の教授を勤めた。

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指揮ヘルベルト・フォン・カラヤン、演奏ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」とチャイコフスキー「イタリア奇想曲」、大序曲「1812年」です。

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