19世紀の印象派の画家カミーユ・ピサロとは、どのような生涯を送ったのでしょうか?
わかりやすくご紹介します。
カミーユ・ピサロとは

カミーユ・ピサロは、西インド諸島のセント・トーマス島の出身です。セント・トーマス島は当時、デンマーク領でした。
ピサロは1830年(文政13年・天保元年)7月10日に誕生しました。父親が金物店を営んでいたため、その手伝いをしていました。
ところが1852年(嘉永5年)、画家であるフリッツ・メルビューに誘われてベネズエラに赴きます。ベネズエラでは2年間過ごしました。
1855年(安政2年)、ピサロは画家を志してフランス・パリに向かいます。ピサロは、私立画塾のアカデミー・シュイスに通っていました。そこでは、後に印象派を作っていくことになるクロード・モネやポール・セザンヌ、アルマン・ギヨマンといった画家たちと出会います。
画家としてのピサロは、1859年(安政6年)にサロン・ド・パリで入選しますが、それ以降は入選と落選を繰り返すような状態でした。そのため、生活は決して楽ではなかったようです。

1870年(明治3年)~1871年(明治4年)、フランス帝国とプロイセン王国が戦った晋仏戦争の期間、ピサロはイギリス・ロンドンに身を寄せます。モネもロンドンに行ったため、ピサロとともに活動しました。
戦争が終わった1871年(明治4年)以降、ピサロはフランス中央部にあるポントワーズに移り住みます。翌年から1881年(明治14年)までの間、セザンヌとともに活動することもあり、互いに影響を与えあっています。
1874年(明治7年)、印象派展が始まります。ピサロは1886年(明治19年)まで、全ての印象派展に参加しています。ピサロが印象派の画家の中で最年長だったことも関係していたのかもしれません。
ピサロは晩年、目の病気が悪化し、室内から風景を描くことが多くなりました。そのため、パリやルーアン、ディエップ、ル・アーヴルといったフランスの街並みを「都市シリーズ」として作成しました。
印象派の画家たちの中心的存在でもあったカミーユ・ピサロは、前立腺の感染症により、1903年(明治36年)11月13日に亡くなりました。
ピサロの遺した作品は非常に多く、油彩画だけでも1,300点を越えています。精力的に絵画と向き合っていたことがうかがい知れます。
なびさんぽで紹介しているカミーユ・ピサロ作品

【なびさんぽ】でご紹介しているカミーユ・ピサロの作品は次の通りです。
ルーアンの波止場・夕陽 | 制作年:1896年(明治29年)。 【ヤマザキ マザック美術館所蔵】 |
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まとめ
- カミーユ・ピサロは、西インド諸島のセント・トーマス島出身。
- パリの私立画塾では後の印象派のメンバーとなるモネやセザンヌ、ギヨマンらと知り合う。
- 晩年のピサロは、目の病気が悪化。