2003年(平成15年)、国立西洋美術館で開催された「レンブラントとレンブラント派-聖書、神話、物語」展。
そこで展示されていたレンブラント・ファン・レイン作「善きサマリア人のいる風景」は、新約聖書のイエス・キリストのたとえ話というよりは、幻想的な風景画のように思える作品です。
今回は「善きサマリア人」のたとえ話の内容も含めて、作品を見つめてみます。
レンブラント・ファン・レイン作「善きサマリア人のいる風景」とは

■レンブラント・ファン・レイン作「善きサマリア人のいる風景」
- 制作年:1638年
- サイズ:46.5 × 66.0cm
- 油彩、板
「善きサマリア人」のたとえ話は、新約聖書でイエス・キリストが教えたものです。まずは「善きサマリア人」のたとえ話についてご紹介します。
イエス・キリストは「善きサマリア人」のたとえ話を律法学者とのやり取りの中で話されました。
正式な教義を教えていたのは、大祭司を含む祭司と呼ばれる人たちなんだけれど。
いずれにしても律法学者と祭司は、ともに旧約聖書に精通していたはずだね。
イエス・キリストを試そうとした律法学者が次のような質問を投げかけました。
するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
出典:『新約聖書 ルカによる福音書 第10章25節』
105ページ 日本聖書協会
イエス・キリストはその律法学者に質問し直すことで回答させます。
彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。
出典:『新約聖書 ルカによる福音書 第10章26節』
105ページ 日本聖書協会
律法学者は自分の持つ知識の中から正しい答えをします。
彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。
出典:『新約聖書 ルカによる福音書 第10章27節』
105ページ 日本聖書協会
イエス・キリストは律法学者の回答が正しいことを認め、その通りに実行するように教えました。
律法学者の側に立ってその心境を想像すると、イエス・キリストをやり込めることができなかったことに悔しさや恥ずかしさを感じたのかもしれませんね。
聖書には、その律法学者が「自分の立場を弁護」しようとしたと記載されています。
ムキになったのかどうかまではわかりませんが、イエス・キリストにさらなる質問を投げかけて食い下がります。「隣り人」とは誰ですか?と。
イエス・キリストはそこで「善きサマリア人」のたとえ話(ルカによる福音書 第10章30~37節)を通じて教えられました。たとえ話に登場する人物は次の通りです。
ある人 | エルサレムからエリコに旅する人物。 ハッキリとは言及されていませんが、ユダヤ人であると考えられます。 |
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強盗 | 「ある人」を襲う人たち。 |
祭司 | 旧約聖書の時代、アロン(モーセの兄)とその子孫だけが継承できた宗教的な職の人たち。 |
レビ人 | 祭司を助け、宗教的儀式を執り行なっていた人たち。 |
サマリヤ人 | イスラエルの北王国がアッシリアに占領されたあと、サマリア(首都)に定住した人々で、当時、次の理由でユダヤ人に嫌われていた人たち。
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宿屋の主人 | 旅人が宿泊した宿の主人。 |
これらを踏まえたうえで、イエス・キリストの教えた「善きサマリア人」のたとえ話をお読みください。ポイントは、誰が「強盗に襲われた人」の隣り人になったのか?です。
イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。
出典:『新約聖書 ルカによる福音書 第10章30~37節』
105~106ページ 日本聖書協会
このたとえ話で強盗に襲われた人を助けたのは、律法をよく理解しているはずの祭司でもレビ人でもなく、ユダヤ人に嫌われていたはずのサマリヤ人でした。このサマリヤ人は、自分を嫌っている人に見返りを求めず慈悲深い行為を示しました。
イエス・キリストはこのたとえ話で、神の教え(律法)を知っているだけで実行しない人に注意を促したのだと思います。
神の教えを知らなければそれを実行できないので学びは大切ですが、学び、知っているだけでは不十分なのです。神様と人を愛することがイエス・キリストの教えであり、それには気持ちだけでなく行ないも求められるということです。
これができるような人格を身につけるには、小さな親切からでも実行して継続する必要がありそうだ!
ここからは、レンブラント・ファン・レインの描いた「善きサマリア人のいる風景」に目を向けてみましょう。
画面のほぼ中央には大きな木があって、右と左の景色を隔てているかのようです。
左側には、黄金色に輝いてい見える風景が広がっています。遠くには風車があり、二頭の白い馬と荷車が見えます。一番明るい場所には岩があり、二つの穴から水が流れ出ています。
では...「善きサマリア人」のたとえ話の登場人物はどこに描かれているのでしょうか?
よく観ると、画面右下に馬かロバの背に乗せられている強盗に襲われた旅人を確認できます。上半身の衣類ははぎ取られていますね。ハッキリとは認識できませんが、旅人の背には善きサマリア人の手が添えられているようです。
大きな木の右側(1人)とその道の奥側(2人)には、祭司とレビ人らしき姿が見えます。
レンブラントは「善きサマリア人のいる風景」というタイトルを付けていますが、風景重視でこの作品を描いたのでしょう。風景画にこっそりと聖書のエッセンスを盛り込んだのかもしれませんね。
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レインとは

「光と影の画家」と呼ばれ、オランダ・バロック絵画を代表する画家のひとりレンブラント・ファン・レインの生涯については、『すぐわかる!レンブラント・ファン・レインとは|「光と影の画家」の生涯について』をご参照ください。

わたなびはじめの感想:レンブラント「善きサマリア人のいる風景」について

私にとって「善きサマリア人のいる風景」は、幻想的すぎてそれほど魅力を感じません。
「どこにサマリア人がいるのか探してごらん?」と、謎かけされているような気がするのです。
もしかすると汚れや劣化によって、描かれた当初とは印象が違って見えている可能性も否定できませんね。
レンブラントの風景画をあまり知らないので何とも言えないのですが、いまひとつステキさを感じられません。
最後に、いつものわたなび流の感想で終わります。
レンブラント・ファン・レイン作「善きサマリア人のいる風景」は、「美術館で鑑賞したい作品」です。
この風景の雰囲気も好みではありませんが、「レンブラントは人物を描いた方が力を発揮できたのかもしれない...」と勘ぐってしまいました。

まとめ
- 新約聖書のイエス・キリストの教えである「善きサマリア人」が描き込まれている作品。
- 聖書に基づく物語性よりも、風景重視の作品に感じる。
- サマリア人を探せ!的な印象を抱くのは私だけ?