美術作品

すぐわかる!二コラ・ランクレ(ニコル・ランクレ)とは

すぐわかる!二コラ・ランクレ(ニコル・ランクレ)とは

18世紀に活躍したフランスの画家二コラ・ランクレ(ニコル・ランクレ)は、アントワーヌ・ヴァトー亡きあとフェート・ギャラント(雅宴画)の第一人者になった人物です。

その生涯をわかりやすくご紹介します。

二コラ・ランクレ(ニコル・ランクレ)とは

フランス・パリフランス・パリ

ニコル・ランクレ(ニコル・ランクレ)は1690年(元禄3年)にパリで生まれました。

ランクレにとっての最初の師は歴史画家ピエール・デュランの可能性が高いようです。

ランクレはアカデミーでも学んだようですが、仲間とケンカしたことで除籍になっています。1708年(宝永5年)のことです。

1711年(宝永8年・正徳元年)、ローマ賞に挑戦しますが失敗。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
ローマ賞は、ルイ14世が創設した年1度開催される芸術家の登龍門的コンクールのこと。
1663年(寛文3年)~1968年(昭和43年)という歴史があったんだ。
絵画や彫刻、版画、建築、(後に音楽も)の各賞があって、受賞者は政府から奨学金をもらいながら留学する権利を受けることができたスゴイ賞。
ローマ賞といえば、以前、ラヴェル・ボレロの記事でも触れたっけ。

歴史画家として挑んだローマ賞を逃したあとのランクレは、当時のオペラ座で舞台装置や衣装の監督を担当していたクロード・ジローの工房に入ります。

このクロード・ジローという人物は、上述したフェート・ギャラント(雅宴画)で有名な画家アントワーヌ・ヴァトーの師だったのです。ランクレがそのことを知っていたのかどうかは推測の域を出ませんが、おそらく知っていたことでしょう。

1719年(享保4年)、ランクレはフェート・ギャラント(雅宴画)の画家としてアカデミーに入会しています。ランクレは劇場やサロンに集う貴族たちを優雅に描くことにこだわりを持っていました。

ランクレはアントワーヌ・ヴァトーの作風を見習い、二人の関係も良好でした。しかし、ランクレの作品がヴァトーのものと間違えられるといった出来事がもとで、関係は悪化したようです。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
作風が似るのはある意味、仕方のないことかもしれないね...

ヴァトーが亡くなった後、フェート・ギャラント(雅宴画)における第一人者となったランクレ。その作品も高額で取引されるようになりました。また、フランスで金融業を営み美術コレクターだったピエール・クロザの支援を受けることも経済的な安定に影響したことでしょう。

ランクレは独自性の追求にもチャレンジし、脱ヴァトー化を進めたようです。その結果、ヴァトーの作風からの影響が薄まっていきます。

フランス国王ルイ15世の依頼でミュエット城の装飾を手掛けました。その依頼に対してランクレは6点を制作しています。

ランクレは、1743年(寛保3年)パリにて亡くなりました。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
エカテリーナ2世のコレクションには、ランクレの作品が10点はあったと言われているんだ。
ちなみに、ランクレが1730年(享保15年)頃に描いた油彩画「眠る羊飼女」が、国立西洋美術館に収蔵されているよ。

なびさんぽで紹介している二コラ・ランクレ(ニコル・ランクレ)作品

パリ(フランス)シャンゼリゼ通りパリ(フランス)シャンゼリゼ通り

【なびさんぽ】でご紹介している二コラ・ランクレ(ニコル・ランクレ)の作品は、次の通りです。

いたずら 制作年:1735年頃。
【アイルランド国立美術館所蔵】
庭園のコンサート 制作年:不明(1690~1743年)。
【エルミタージュ美術館所蔵】

まとめ

ニコル(ニコラ)・ランクレとは
  1. アントワーヌ・ヴァトーの影響を受けた画家。
  2. アントワーヌ・ヴァトー亡きあとフェート・ギャラント(雅宴画)の第一人者になった画家。
  3. ルイ15世からの依頼を受けミュエット城の装飾のために6作品を制作。

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