クラシック音楽

すぐわかる!アントニオ・ヴィヴァルディとは

すぐわかる!アントニオ・ヴィヴァルディとは

バロック音楽を代表する音楽家のひとりアントニオ・ヴィヴァルディとは、どのような生涯を送ったのでしょうか?

ヴァイオリン協奏曲「四季」の作曲者として有名なヴィヴァルディ。実は作曲家としてだけでなく、ヴァイオリニストや劇場の支配人、音楽の教師、カトリック教会の司祭といった側面も持っていました。

音楽を中心に活躍したと言っても過言ではないヴィヴァルディの生涯について、わかりやすくご紹介します。

ヴィヴァルディ、誕生~音楽家になるまで

ヴェネツィアヴェネツィア

アントーニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディは、1678年(延宝6年)3月4日にイタリア・ヴェネツィアのカステッロ区で誕生しました。生まれたときには危険な状態だったため、助産師さんが仮の洗礼を授けたとか。正式な洗礼は約2か月後の5月6日のこと。家の近所にあったサン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会で儀式が行われました。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
ヴィヴァルディの誕生日のことは、1900年代までハッキリとはわかっていなかったんだよ!
瀕死状態の理由には、病弱説と誕生日に大きい地震があった説があるんだ。

ヴィヴァルディの父親は理髪師で街のお医者さんでした。当時の理髪師は簡単な外科医も兼ねていたようです。音楽的才能を持った人物で、サン・マルコ大聖堂のヴァイオリニストも務めたほど。

幼い頃のヴィヴァルディは父親からヴァイオリンを学び、父の友人たちから作曲法の指導を受けました。

上述したようにヴィヴァルディはカトリック教会の司祭にもなった人物ですが、その理由のひとつには彼が庶民の出であったことが関係しています。他の階級の人々と交流を持つには聖職者という立場が有利だったからです。

1688年(貞享5年・元禄元年)、ヴィヴァルディはサン・ジェミニアーノ教会付属学校に入学。同じくらいの時期に、サン・マルコ大聖堂の見習いヴァイオリニストになります。

1693年(元禄5年)に剃髪。1699年(元禄11年)には21歳で下級叙階を得ています。1700年(元禄13年)カトリック教会の助祭になり、1703年(元禄16年)3月25日に司祭に25歳で叙階されました。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
ヴィヴァルディは持病の喘息による発作でミサができないこともあったみたい。
そのため、平服の在俗司祭になっているんだ。
喘息については疑いを持っている研究者もいるようだよ。

ヴィヴァルディ、音楽家に、そして絶頂期へ

イタリア・ローマイタリア・ローマ

1703年(元禄16年)には、イタリアの出版社ジュゼッペ・サーラから「トリオ・ソナタ集」作品1を出版しています。この作品の再版による販売実績は、ヴィヴァルディが音楽家になることに影響を与えたことでしょう。

在俗司祭になったヴィヴァルディは、1703年(元禄16年)の秋から1740年(元文5年)までピエタ慈善院付属音楽院でヴァイオリンの教師などを勤めました。一時期、経営状況の悪化を主な原因として契約が途絶えた期間も存在しています。

この時期のヴィヴァルディの主な作品は次の通りです。

1709年
(宝永6年)
●12曲の「ヴァイオリン・ソナタ集」作品2を出版。
1711年~1712年
(宝永8年・正徳元年~正徳2年)
●「調和の霊感」作品3を出版。
1713年
(正徳3年)
●歌劇「オルランド・フリオーソ(怒りのオルランド)」初演。
●歌劇「離宮のオットー大帝(オットーネ)」初演。
●「ラ・ストラヴァガンツァ」作品4を出版。
1714年
(正徳4年)
●オラトリオ「ファラオの神モイゼ」初演。
1716年
(正徳5年)
●オラトリオ「勝利のユディータ」初演。
※現存するヴィヴァルディ唯一のオラトリオ。

ヴィヴァルディの音楽家としての名声は、ヴェネツィアに留まらずヨーロッパへと広がっていきました。

1720年代に入るとヴィヴァルディは音楽家としての絶頂期を迎えます。

1724年(享保9年)にはローマ教皇と謁見し、御前演奏を行ないました。

1724年(享保9年)~1725年(享保10年)には、アムステルダムのミシェル・ル・セーヌ社から楽譜「和声と創意の試み」作品8を出版。この中に後にヴァイオリン協奏曲「四季」と呼ばれる作品が含まれています。

1727年(享保12年)には「ラ・チェトラ」作品9を出版。翌1728年(享保13年)には神聖ローマ皇帝カール6世に謁見し、手書きの協奏曲集を「ラ・チェトラ」として献呈する機会を得ています。皇帝とのパイプを築いたヴィヴァルディは、多額の金品とメダリオンを賜りました。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
メダリオンはパトロンの証だったみたい。

1730年代にはプラハやイタリアの各都市で歌劇(オペラ)の上演を行ないました。

ヴィヴァルディ、晩年と最期

オーストリア・ウィーンオーストリア・ウィーン

オペラの作曲家として名声を築いたヴィヴァルディでしたが、1730年代後半からその人気に陰りが見えはじめます。バルダッサーレ・ガルッピといった作曲家の台頭が影響したのです。

1740年(元文5年)、ウィーンで歌劇(オペラ)の上演を決意したヴィヴァルディ。ほぼ時を同じくして、神聖ローマ皇帝カール6世が崩御します。オーストリアは1年間喪に服すことになり、歌劇(オペラ)の興行も不可能になりました。その後オーストリアはオーストリア継承戦争に。ヴィヴァルディに対する貴族らの関心は失われ、活躍の場も無くなるのでした。

想い描いたような活動ができないことも負担になったのでしょう。ヴェネツィアに帰ることもできなくなったアントニオ・ヴィヴァルディは、1741年(元文6年・寛保元年)7月28日にウィーンのケルントナートーア劇場専用の作曲家宿舎にて亡くなりました。遺体は貧民墓地に葬られています。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
作曲家としてだけでなくヴァイオリンのヴィルトゥオーソ(卓越した技巧を持つ名人のようなもの)としても名を馳せたヴィヴァルディだけど、晩年は悲しい時期が続いたみたいだね。
彼の作品も19~20世紀前半にかけて世間から忘れられたわけだけれど、ヴァイオリン協奏曲「四季」は名曲だと思うぞ!

なびさんぽで紹介しているビバルディ作品

イタリア・ヴェネツィアイタリア・ヴェネツィア

【なびさんぽ】でご紹介しているビバルディの作品は次の通りです。

ヴァイオリン協奏曲「四季」第1番【春】 アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン&指揮)&トロンヘイム・ソロイスツの演奏。
アンネ=ゾフィー・ムターのヴァイオリンによる、ヴィヴァルディの「四季」およびタルティーニの「悪魔のトリル」です。

まとめ

アントニオ・ヴィヴァルディとは
  1. J・S・バッハやヘンデルらと共にバロック音楽を代表する作曲家。
  2. ヴァイオリンのヴィルトゥオーソとしても知られた音楽家。
  3. ウィーンの激動の最中、失意のうちに他界したと思われる。

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