クラシック音楽

すぐわかる!ジャン・シベリウスとは

すぐわかる!ジャン・シベリウスとは

交響詩「フィンランディア」で有名なフィンランドの作曲家ジャン・シベリウスは、どのような生涯を送ったのでしょうか?

わかりやすくご紹介します。

ジャン・シベリウスの誕生と幼少期

フィンランドの冬フィンランドの冬

ジャン・シベリウスは、後期ロマン派の作曲家でありヴァイオリニストです。
後期ロマン派の音楽家とはいえ、1957年(昭和32年)まで生きた方ですから、近現代音楽にも重なると思います。

シベリウスは、1865年(元治2年・慶応元年)12月8日にフィンランド・ハメ州ハメーンリンナで誕生しました。
彼の出生地は当時、ロシア帝国の自治領でした。

父親は医師でしたが、シベリウスがまだ幼い1868年(慶応4年・明治元年)に腸チフスで亡くなっています。
借金などの清算後は、母親の実家で生活するようになりました。

シベリウスの幼少期、夏には家族で海のある街ロヴィーサに旅行をしたようです。
シベリウスは自然にも興味を持つようになっていきました。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
幼い頃に自然に対する関心を持ったシベリウス。
きっと、後の作曲にも影響を与えることになったのでは…

7歳ころから叔母にピアノを習い始めたシベリウス。
ピアノだけでなく音楽の勉強もしていました。

シベリウスが10歳のとき、叔父からヴァイオリンをもらいます。
この叔父がシベリウスがヴァイオリニストを目指すのに大きな影響を与えたことは容易に想像できます。

1887年(明治20年)には、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾くほどの腕前になりました。

シベリウスはスウェーデン系のフィンランド人家系だったため、スウェーデン語を話していましたが、フィンランド語も学習したようです。

ジャン・シベリウス、ヘルシンキ大学へ

フィンランド・ヘルシンキ大学本部フィンランド・ヘルシンキ大学本部

シベリウスは1885年(明治18年)に高校卒を業後し、ヘルシンキ大学に入学します。

そこでは法学を学んでいましたが、音楽への想いを断ち切れず、同年、ヘルシンキ音楽院(現在シベリウス音楽院)に転入することを決意します。

ヘルシンキ音楽院において、シベリウスは正式な音楽教育を受けることになります。

彼を指導した人の中には、作曲家で音楽学者でもあったマルティン・ヴェゲリウスがいました。
シベリウスはヴェゲリウスから作曲を学んだのです。

その他のシベリウスの指導者たち。

【1889年~1890年】
ベルリンにて。
アルベルト・ベッカー:ドイツ・ロマン派の作曲家。
【1890年~1891年】
ウィーンにて。
ロベルト・フックス:オーストリアの作曲家。
カール・ゴルトマルク:ハンガリー出身の作曲家。

作曲家ジャン・シベリウスの活躍

シベリウス公園・シベリウス像シベリウス公園・シベリウス像

1892年(明治25年)にはシベリウス自身の作曲による「クレルヴォ交響曲」の初演の指揮者を務め、大成功を収めています。

時期をほぼ同じくして、かねてから抱き続けていた超一流のヴァイオリニスト奏者(ヴィルトゥオーゾ)になる夢をあきらめます。
また音楽院などで音楽を教えるようにもなりますが、作曲する時間が不足する状況になってしまいます。

ところがシベリウスが経済的安定を得られる機会が訪れます。
1898年(明治31年)から年次助成金の交付を受けられるようになったのです。

1899年(明治32年)からは交響曲(第1番)の制作に取り掛かります。

この頃、フィンランドはロシア皇帝ニコライ2世によるロシア化の影響を受けることになります。
シベリウスにとっては愛国心をかき立てる要因になったはずです。

シベリウスは愛国心を合唱曲「アテネ人の歌」などの音楽に反映させます。
これによりフィンランドにおけるシベリウスの認知度が高まることに。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
これらの音楽作品が、後の「フィンランディア」へと受け継がれることになります。

1900年(明治33年)にシベリウスはお子さんのひとりを亡くします。
この出来事によるシベリウス夫妻の悲しみをはかり知ることはできません。

しかしシベリウスは、その後まもなく演奏旅行に出ます。
スウェーデン(ストックホルム)やフランス(パリ)などの13都市を巡った演奏旅行により、シベリウスの知名度は国際的なものへとなっていきまました。

ジャン・シベリウスの晩年と代表作

フィンランド・ヘルシンキフィンランド・ヘルシンキ

シベリウスの生活面では心配な要素が浮上します。

1907年(明治40年)、シベリウスのアルコールを含む暴飲暴食による生活習慣が負担となり、妻アイノが体調を崩していまいます。
妻が療養施設で過ごす期間にシベリウスは禁酒を決意し、作曲に打ち込みます。
(10年後には飲酒を再開するようですが…)

ヘルシンキで過ごしていたこの時期に、シベリウスはグスタフ・マーラーと出会っています。

1920年(大正9年)代中盤まで、シベリウスは作曲家として多くの作品を世に送り出しています。

作曲家としての活動は、1924年(大正13年)の「交響曲第7番」、1926年(大正15年・昭和元年)の付随音楽「テンペスト」と交響詩「タピオラ」の完成が区切りとなって、大規模作品の作曲から遠のくことに…。

その後、1957年(昭和32年)9月20日、シベリウスは脳内出血により亡くなりました。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
2011年からフィンランドでは、シベリウスの生まれた12月8日を「フィンランド音楽の日」として祝っているそうです。
フィンランド・ヌークシオ国立公園フィンランド・ヌークシオ国立公園

シベリウスの代表作の一部をご紹介します。

1893年(明治26年) 「カレリア」組曲
1896年(明治29年) オペラ「塔の乙女」
1899年(明治32年) 交響詩「フィンランディア」
1899年(明治32年) 交響曲第1番 ホ短調
1902年(明治35年) 交響曲第2番 ニ長調
1903年(明治36年) 付随音楽「クオレマ(死)」(悲しきワルツ
1905年(明治38年) ヴァイオリン協奏曲 ニ短調
1907年(明治40年) 交響曲第3番 ハ長調
1911年(明治44年) 交響曲第4番 イ短調
1915年(大正4年) 交響曲第5番 変ホ長調
1923年(大正12年) 交響曲第6番 ニ短調
1924年(大正13年) 交響曲第7番 ハ長調

まとめ

ジャン・シベリウスとは
  1. シベリウスはフィンランド出身で後期ロマン派の作曲家。
  2. 交響詩「フィンランディア」が有名。
  3. 「ヴァイオリン協奏曲」は壮大ですばらしい楽曲。

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