ルネサンス後期の美術「マニエリスム」を代表するクレタ島(ギリシア)出身の画家エル・グレコ。
エル・グレコとは、どのような画家だったのでしょうか?
わかりやすくご紹介します。
エル・グレコとは

エル・グレコは、ルネサンス後期の美術「マニエリスム」を代表する、クレタ島(現在ギリシア領)出身の画家です。
■マニエリスムとは
マニエリスムは、イタリア語の「様式」や「手法」を意味する言葉に由来する呼び名です。
例えば、人体の比率にとらわれない誇張した表現や鮮やかで冷ややかな色調を特徴としています。
エル・グレコは1541年(天文10年)に誕生しました。
本名はドメニコス・テオトコプーロス。エル・グレコという呼び名(通称)は、「ギリシア人」を意味するイタリア語「グレコ」に由来します。その前にスペイン語で単数の男性を表す定冠詞「エル」を付けたのです。
画家として活動を始めたのは1562年(永禄5年)頃からだと言われています。当初はイコン(聖像)風のような様式で制作していました。
エル・グレコは1566年(永禄9年)からの3年間ヴェネツィアで修行し、1569年(永禄12年)イタリア・ローマに活動場所を移します。そこでは枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼの支援を受けています。ヴェネツィアでの修業期間には、ティツィアーノ・ヴェチェッリオからも学んだ可能性があります。
残念ながらイタリアにおけるエル・グレコの評価はそれほど高くはなかったようです。
その後、スペイン・トレドに移ります。1577年(天正5年)のことです。
エル・グレコは1584年(天正12年)にエル・エスコリアル修道院の祭壇画を描きました。しかし、その作品「聖マウリティウスの殉教」を納品することはできませんでした。完成品に対して国王フェリペ2世とヒエロニムス会士が受け取り拒否をしたからです。
その後も修道院などからの依頼を受けて制作活動を続けました。
エル・グレコは、1614年(慶長19年)4月7日に亡くなりました。
なびさんぽで紹介しているエル・グレコ作品

【なびさんぽ】でご紹介しているエル・グレコの作品をまとめます。
聖痕を受ける聖フランチェスコ | 制作年:1590年(天正18年)/1595年(文禄4年) 【アイルランド国立美術館所蔵】 |
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使徒聖アンデレ | 制作年:1610年(慶長15年)頃 【ハンガリー国立ブダペスト美術館所蔵】 |
まとめ
- エル・グレコは、ルネサンス後期の美術「マニエリスム」を代表する画家。
- クレタ島の出身。
- エル・グレコとはニックネームで、本名はドメニコス・テオトコプーロス。