20世紀の美術に大きな影響を与えたフランスの画家ポール・セザンヌとは、どのような生涯を送ったのでしょうか?
わかりやすくご紹介します。
ポール・セザンヌとは

ポール・セザンヌは「近代絵画の父」とも呼ばれるフランスの画家です。フランス・エクス=アン=プロヴァンスで、1839年(天保10年)1月19日に誕生しました。
モネやルノワールらともに印象派のグループに属していた時期がありますが、1880年代に入ると絵画の伝統に縛られない独自の画風を追求しています。
そのため「ポスト印象派」の画家とも呼ばれ、ピカソやジョルジュ・ブラックら「キュビスム」以降の多くの画家に影響を与えました。「近代絵画の父」と呼ばれる所以ですね。
セザンヌの父親は銀行の経営者で、息子に法律を学ぶことを期待したようです。
セザンヌは10歳でエクスのサン=ジョセフ校に、13歳でブルボン中等学校に入学しています。
セザンヌの人柄を伺える出来事があります。パリ出身の下級生がよそ者扱いされてシカトされていたのを無視して声をかけたことがありました。結果としては、セザンヌ自身も報復されましたが、その後小説家となる下級生のエミール・ゾラとは親友になっています。
ブルボン中等学校に通う傍ら、セザンヌは1857年(安政4年)からエクスの市立素描学校にも足を運ぶようになります。そこで素描を学びました。
1858年(安政5年)に中等教育レベル認証国家資格であるバカロレアに合格。
1861年(万延2年・文久元年)までは、前述した父の希望に沿ってエクス大学の法学部に通っていました。この期間もセザンヌは素描の勉強を続けていました。
そのような絵に対する想いは徐々にセザンヌの中で膨らんでいきました。法学の勉強に身が入らなくなったのです。
親友エミール・ゾラの励ましもあり、セザンヌは画家を志すために大学を中退します。1861年(万延2年・文久元年)のことでした。同年4月には絵画の勉強を目的としてパリに移ります。

パリに出たセザンヌはルーヴル美術館で巨匠ベラスケスやカラヴァッジオらの作品に影響を受けます。
残念ながら官立の美術学校への入学は叶わず、アカデミー・シュイスという画塾に通いはじめます。この画塾では、後に印象派を形成するカミーユ・ピサロやアルマン・ギヨマンとの出会いがありました。
しかし1年もたたないうちにセザンヌは故郷に帰ってしまいます。都会的な振る舞いができなかったことや熱心に絵画に向き合う姿を揶揄されたことが関係していたようです。
故郷では、父親の経営する銀行に勤務しつつ美術学校に通っていました。
残なことに、銀行での勤務はセザンヌに合っていなかったようです。
1862年(文久2年)、セザンヌは再びパリに戻り、画塾アカデミー・シュイスに通いはじめました。この度は、クロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらと出会ったようです。
推測だけれど、セザンヌには画家になりたいという強い意志があったんだ。
もしくは銀行業務が性に合わなかったため、画家しかない!と感じたのかもしれないね。
この頃のセザンヌは、画家になりたいという点でのブレはないようだけれど、周囲の目にはフラフラしているように映ったんじゃないかな。
1865年(元治2年・慶応元年)、セザンヌはサロン・ド・パリに応募するも落選。翌年1866年(慶応2年)も落選。
1867年(慶応3年)、1868年(慶応4年・明治元年)、1870年(明治3年)も落選し、なかなか評価を得られませんでした。経済的にも厳しくなっていきました。
1870年(明治3年)の普仏戦争勃発に際しては、地中海沿いのエスタックという漁村に移り、兵役には就いていません。
セザンヌはエスタック村の風景も描いています。
1872年(明治5年)夏頃、セザンヌはパリに戻ります。この時期セザンヌは、ピサロやモネから影響を受けたようです。
そして1874年(明治7年)、セザンヌは第1回印象派展に3作品を出品します。印象派展は批評家らにより酷評されましたが、セザンヌの作品「首吊りの家」はアルマン・ドリア伯爵の買い上げとなっています。
第2回には出品しませんでしたが、1877年(明治10年)の第3回印象派展には出品し、評価が分かれました。
その後セザンヌは、印象派の手法に対して疑念を抱くようになります。光を表現を追求するだけでなく、対象物を存在感を持って描きたい気持ちになったのでした。
1878年(明治11年)頃からの数年間、セザンヌはパリの画壇と距離を置きます。しかし1882年(明治15年)、主催団体が替わったサロンで初入選します。その時の作品は「L・A氏の肖像」でした。
1890年代に入ると糖尿病と加齢により、セザンヌは屋外での絵画制作が困難になります。
1895年(明治28年)と1898年(明治31年)には個展を開催しています。
ポール・セザンヌは肺炎のため、1906年(明治39年)10月22日または23日に亡くなりました。
一部の画家は別として、晩年になるまでセザンヌ作品に対する大衆からの評価は高かったとはいえません。しかし彼の死後、その価値がより認められるようになっていきました。
なびさんぽで紹介しているセザンヌ作品

【なびさんぽ】でご紹介しているセザンヌの作品は次の通りです。
ビベミュの石切場からのサント=ヴィクトワール山 | 制作年:1897年(明治30年)頃。 【ボルティモア美術館所蔵】 |
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サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール | 制作年:1904(明治37年)~1906年(明治39年)頃 【アーティゾン美術館所蔵】 |
まとめ
- 銀行員の父親は、セザンヌに法律を学んでほしいと思っていた。
- エクス大学の法学部に進も、画家への道をあきらめられなかった。
- セザンヌは、第1回印象派展に3作品を出品した。