ベラスケスやスルバランと同時代に活躍した17世紀スペインの画家アロンソ・カーノとは、どのような生涯を送った人物だったのでしょうか?
スペインのセビリアやグラナダを中心に活躍したアロンソ・カーノは、画家だけでなく彫刻家や建築家としても活躍した人物です。
わかりやすくご紹介します。
アロンソ・カーノの誕生と芸術の師

アロンソ・カーノは1601年(慶長6年)2月19日、スペイン・グラナダで誕生しました。その後、1615年(慶長20年・元和元年)頃に家族とともにセビリアに移り住みます。
セビリアでは二人の師に芸術を学びました。
- 絵画:フランシスコ・パチェーコ
- 彫刻:マルティネス・モンタニュース
アロンソ・カーノは建築に対する知識にも明るかったようです。
アロンソ・カーノ、セビリアでの活動

アロンソ・カーノ最初の活躍の場はセビリアでした。
早い時期に画家としてのセビリアにおける地位を築くことに成功。実力ある他の画家との共同制作で、教会の祭殿の装飾などを手掛けました。
アロンソ・カーノの現存する重要作品としては、セビリアの聖パウラ修道院の聖堂の祭壇が挙げられます。この制作には、設計だけでなく絵画の装飾も行なっています。
アロンソ・カーノはマリア・デ・フィゲロアと結婚しましたが、出産時に奥さんは亡くなりました。1631年(寛永8年)、アロンソ・カーノはマグダレナ・デ・ウセダと再婚しています。
アロンソ・カーノ、マドリードでの活動

1638年(寛永15年)、アロンソ・カーノはマドリードに移ります。
マドリードでは、セビリアを故郷に持つ宰相オリバレス公伯爵の画家となります。オリバーレス公伯爵は長くフェリペ4世に仕えた人物です。
アロンソ・カーノはマドリードにおいて、火災により被害を受けた王室絵画の修復作業の依頼を受けています。この時期にアロンソ・カーノは、16世紀のベネツィア絵画に対する造形を深めたと思われます。
その影響は1640年代後半以降のアロンソ・カーノ自身の作品にも影響を与えることに。筆触にやわらかさが増したようです。
1644年(寛永21年・正保元年)、アロンソ・カーノは殺人の罪に問われることになってしまいます。彼の妻が殺害されてしまったのです。証拠不足で有罪判決は受けませんでしたが、それまでに拷問なども受けたようです。
アロンソ・カーノ、グラナダでの活動と最期

1651年(慶安4年)、アロンソ・カーノは活動の場所をグラナダへと移します。
グラナダ大聖堂の受禄聖職者の任命を受けるためだったようです。実際にグラナダ大聖堂の受禄聖職者になったのは、1652年(慶安5年・承応元年)のことです。
グラナダでは建築家としての才能をみせ、大聖堂ファサード(建物の正面部分のデザインのこと)の設計に携わりました。グラナダ大聖堂には「無限罪の御宿り」の彫刻が遺されています。
アロンソ・カーノは教育者としての一面も持っていたようで、グラナダ絵画彫刻学校の創始者でもありました。
アロンソ・カーノは1667年(寛文7年)、スペイン・グラナダで亡くなりました。
アロンソ・カーノの代表作

アロンソ・カーノの作品をいくつか列挙してみます。
1646年~1648年 (正保3年~正保5年・慶安元年) |
「聖母子(明星の聖母)」 【プラド美術館所蔵】 |
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1646年~1648年頃 (正保3年~正保5年・慶安元年頃) |
「聖イシドロと井戸の奇蹟」 【プラド美術館所蔵】 |
1652年~1657年 (慶安5年・承応元年~明暦3年) |
「天使に解放される聖ペテロ」 【プラド美術館所蔵】 |
1655年 (承応4年・明暦元年) |
「無限罪の御宿り」 【グラナダ大聖堂所蔵】 |
まとめ
- アロンソ・カーノは画家だけでなく、彫刻家や建築家としてマルチに活躍した人物。
- 奥さんが殺害されたことで疑われ拷問を受けたが、証拠不十分で有罪判決には至らなかった。
- 火災で被害を受けたスペインの王室絵画の修復作業にも携わった人物。