19世紀のアメリカ人画家ジョージ・イネスとは、どのような生涯を送ったのでしょうか?
19世紀後半に風景画家として名を馳せたジョージ・イネス。しかし、その名声を得るまでには時間がかかりました。
わかりやすくご紹介します。
ジョージ・イネス、誕生~修業時代

ジョージ・イネスは、1825年(文政8年)5月1日に誕生しました。
ジョージ・イネスの出身地はニューヨーク州ですが、幼い頃にニュージャージー州に家族で引越しています。13人兄弟の大家族。父親は農夫だったので、時には家族が協力して農作業をしていたかもしれませんね。
うちは幼い頃、2人家族だったな。
ジョージ・イネスは10代の頃、銅版画家としての仕事をしていました。
1840年代に入ってからはニューヨークを仕事の拠点としています。時をほぼ同じくして、フランスから亡命してきた風景画家のレジス・ジヌーから絵を学んでいます。
ジョージ・イネス、ニューヨーク時代とヨーロッパ訪問

ジョージ・イネスの初期の画風には、ヨーロッパの風景画家(クロード・ロランなど)の作品から影響を受けていたようです。1850年代には、ヨーロッパに2回赴いています。特に2度目のヨーロッパ訪問時には、フランスのバルビゾン派の画家たちから大きな影響を受けました。
バルビゾン派とは、1830年代にフランスで誕生した画家の一派です。
バルビゾンとは村の名称で、風景や農民などを描く画家たちが集まって活動していました。「落穂ひろい」で有名なミレーは、バルビゾン派の中心的な画家の一人です。
30代半ばで体を壊したジョージ・イネスはニューヨークを離れます。パトロンを得られなかったことも関係していると思われます。
しかし数年でニューヨーク近郊に戻ります。そのころにマーカス・スプリングスという人物の世話になっています。スプリングスはユートピア論者で、彼の住まいには芸術家たちのコミュニティーが形成されていました。
ジョージ・イネスはそのコミュニティーで、スウェーデンボリの思想的な影響を受けます。
スウェーデンボリはスウェーデンの思想家です。その思想の詳細についてはわかりませんが、「自然界と霊的世界のつながり」が関係しているようです。
ジョージ・イネス、イタリアを経てニューヨークへ

ジョージ・イネスは1870年(明治3年)からの4年間、イタリアを中心に過ごしています。
1878年(明治11年)には経済的な自立を果たし、ニューヨーク大学ビルにアトリエを借りています。
自宅はニューヨークに近いニュージャージー州モントクレアに構えていました。亡くなるまで、モントクレアに住んでしました。
1889年(明治22年)のパリ万国博覧会では金メダルを受賞し、ジョージ・イネスの名は国際的に知られることになります。
1894年(明治27年)8月3日にジョージ・イネスは亡くなりました。その葬儀は、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインの主催で執り行われています。
ナショナル・アカデミー・オブ・デザインは、1825年(文政8年)設立されたニューヨークの美術学校です。
なびさんぽでご紹介しているジョージ・イネス作品

【なびさんぽ】では、次のジョージ・イネス作品をご紹介しています。
デラウェア河風景 | 1861~1863年制作。 【ブルックリン美術館所蔵】 |
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クリスマス・イヴ | 1866年制作。 【モントクレア美術館所蔵】 |
ナイアガラ滝 | 1885年制作。 【モントクレア美術館所蔵】 |
まとめ
- ジョージ・イネスは、ニューヨーク州出身のニュージャージー州育ち。
- ジョージ・イネスはバルビゾン派の画家から影響を受けた。
- 1889年のパリ万国博覧会にて金メダルを受賞。