19世紀~20世紀のはじめに活躍したピエール=オーギュスト・ルノワールとは、どのような生涯を送ったのでしょうか?
ルノワールといえば、印象派を代表するフランス人画家のひとりです。
ここではルノワールの生涯について、わかりやすくご紹介します。
ピエール=オーギュスト・ルノワールとは

ルノワールはフランス・オート=ヴィエンヌ県リモージュで、1841年(天保12年)2月25日に誕生しました。家業は仕立屋を営んでいました。
ルノワールの幼い頃、家族でパリに移り住みます。住居はルーヴル美術館に近かったようですが、労働者階級の人々が暮らす地域だったようです。
ルノワールは歌が上手で、サン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に加入していたとか。
1854年(嘉永7年・安政元年)、13歳で見習いとして磁器の絵付職人の仕事をはじめますが、4年間程で失業。失業の理由は、産業革命による機械化の影響が関係していました。また、聖歌隊は絵付け職人の徒弟になる時点で辞めていました。
その後は扇子の装飾などの仕事をしていました。「絵」にまつわる仕事に興味があったのではないかと想像できますよね。
1862年(文久2年)、ルノワールは画家を目指して帝立美術学校のシャルル・グレールの画塾に入ります。画塾ではモネやシスレーらと親しくなります。
1864年(文久4年・元治元年)には、フランスの王立絵画彫刻アカデミーが主催する公式美術展覧会「サロン・ド・パリ」に入選を果たします。
画家として順風満帆と思われたルノワールでしたが、フランスを取り巻く情勢がそれを許しませんでした。
1870年(明治3年)に普仏戦争が勃発したのです。ルノワールは騎兵隊として従軍しました。1871年(明治4年)に普仏戦争が終わります。

パリに戻ったルノワールは、1874年(明治7年)にモネやピサロといった画家とともにサロンとは別に展覧会を開きます。それが記念すべき第1回の印象派展だったのです。
全部で8回開催された印象派展ですが、ルノワールは第1、2、3、7回の計4回、作品を出展しています。
第3回の印象派展後は、サロンに再度応募するようになります。どうやら経済的な問題が関係していたようです。
1881年(明治14年)、ルノワールはアルジェリアやイタリアへの旅に出ます。イタリア・ローマではラファエロの作品を目にする機会があり、刺激を受けました。
その後、ルノワールの作風に古典主義の傾向が見られるようになります。
1892年(明治25年)にデュラン=リュエル画廊にて開催された回顧展でルノワールの評価が高まります。同年に描いた「ピアノに寄る少女たち」は政府の買い上げとなります。
晩年にはリウマチを患いながら、作品制作を続けたルノワールでしたが、1919年(大正8年)12月3日に亡くなりました。
なびさんぽで紹介しているルノワール作品

【なびさんぽ】でご紹介しているピエール=オーギュスト・ルノワールの作品は次の通りです。
コンセルヴァトワールの出口 | 制作年:1877年(明治10年)。 【バーンズ財団美術館所蔵】 |
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ガーンジー島の子供たち | 制作年:1883年(明治16年)。 【バーンズ財団美術館所蔵】 |
洗濯する女たち | 制作年:1888年(明治21年)頃。 【ボルティモア美術館所蔵】 |
まとめ
- 幼い頃にはルーヴル美術館の近くに住んでいた。
- 若くして磁器の絵付職人の見習いとなる。
- ルノワールは、印象派を代表するフランス人画家のひとり。