フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスは、18世紀から19世紀にかけて活躍したスペインの画家です。
ゴヤの作風は、初期段階においては後期ロココ風でしたが、肖像画家として成功後はネオ・バロック様式へと転じています。
ゴヤは後世の画家たちに大きな影響を与えるほどの偉大な画家でした。
いずれにしても普段「ゴヤ」として認識しているので、このように長い名前をお持ちだったとは知りませんでした。
ゴヤ、誕生~修業時代

ゴヤは1746年(延享3年)3月30日、スペイン北東部にあるアラゴン州サラゴサ近郊のフエンデトドスで生まれました。
父親は鍍金師(メッキ技術者)でした。ゴヤは幼い頃から芸術に親しむ雰囲気のなか成長したようです。
14歳から約4年間、ゴヤはサラゴサのホセ・ルサーンのもとで絵画を学びます。しかし、マドリードにある美術アカデミーの入会には2度失敗しています。
ゴヤ、ローマへ

1770年(明和7年)から約1年間、イタリア・ローマに滞在し、その期間にフレスコ画についての理解を深めました。ルネサンス期の作品を多く目にしたことでしょう。
1772年(明和9年・安永元年)、帰国したゴヤはサラゴサにあるピラール聖母教会から大聖堂の天井装飾の依頼を受けます。1773年(安永2年)頃からは、宮廷からの依頼も受けるようになります。
ゴヤ、マドリードで成功

1774年(安永3年)、ゴヤはマドリードに移ります。翌年からの十数年間は王立タペストリー工場で、装飾的なロココ様式でタペストリーの下絵制作をしていました。
ゴヤはその後、肖像画家として認められ成功します。
1780年(安永9年)にはアカデミーの会員になっています。
1786年(天明6年)には、スペイン国王カルロス3世付きの画家となり、1789年(天明9年・寛政元年)には新しく即位した国王カルロス4世の宮廷画家になっています。
ゴヤは教会のフレスコ画でもそのチカラを発揮します。
ゴヤの失聴と晩年・代表作

その後1792年(寛政4年)から翌年にかけて、病気を患い聴覚を失ってしまいました。それだけでなく、ヨーロッパを取り巻く情勢の変動やナポレオンの侵攻、パトロンを多数失ったことなどが重なり、ゴヤに影響を与えます。
1814年(文化11年)には、専制君主制を嫌い田舎に移り、その10年後にはフランス・ボルドーに移住してしまいます。
ゴヤの代表作ともいえる次の作品は、彼が聴力を失ったあとに制作されたものです。
- カルロス4世の家族
- 着衣のマハ
- 裸のマハ
- マドリード、1808年5月3日
ゴヤは1828年(文政11年)4月16日、フランス・ボルドーにて亡くなりました。
そのほかのゴヤの作品をいくつかご紹介します。
1777年 (安永6年) |
日傘 |
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1787年頃 (天明7年)頃 |
目隠し鬼 |
1789年頃 (天明9年・寛政元年)頃 |
ドニャ・タデア・アリアス・デ・エンリケス |
1815年 (文化12年) |
自画像 |
1825年 (文政8年) |
ボルドーのミルク売り娘 |
まとめ
- ゴヤは18世紀~19世紀にかけて活躍したスペインの偉大な画家のひとり。
- スペイン国王の宮廷画家となる。
- 肖像画家としても成功を収めている。