印象派を代表する画家のひとりクロード・モネとはどのような画家だったのでしょうか?
モネの生涯と作品のいくつかをわかりやすくご紹介します。
クロード・モネの誕生~少年期

モネが誕生したのはフランス・パリで、1840年(天保11年)11月14日のことでした。
モネは幼少期から少年期にかけて、ノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごしています。想像通り、絵は上手かったようです。
モネ、画家の道を歩み始める

18歳の頃に、同じフランス人の風景画家ウジェーヌ=ルイ・ブーダンと出会い、油彩画を学びます。ブータンは風景画家でしたので、モネにも屋外での絵画制作を指導しました。
1859年(安政6年)、モネはパリに戻り(出)ます。その後、私立画塾のアカデミー・シュイスに入り、ピサロと親しくなります。
しかし戦争のため徴兵され、アルジェリアで任に付きます。その後、チフスで帰国しますが、アルジェリアで目にした光景(光や色)は、画家モネの中に大きな種を育むことになります。
1862年(文久2年)にはル・アーヴルから再びパリに戻ります。その際にはシャルル・グレールの画塾に入り、ルノワールやシスレー、バジールらと知り合います。
1865年(元治2年・慶応元年)には、サロン・ド・パリに初入選を果たします。しかし1869年(明治2年)から2年連続で落選も経験します。
その時期、フランスを取りまく状況はまたも不穏さを増し、1870年(明治3年)に普仏戦争がはじまります。モネはイギリス・ロンドンに疎開し、ピサロとも活動しています。
モネ、アルジャントゥイユへ

晋仏戦争終結後、モネはパリ近郊のアルジャントゥイユにアトリエを構えます。
アルジャントゥイユはもともと修道院にその起源を持つ街で、セーヌ河沿いにあります。1800年代中期にはパリと鉄道で結ばれたことも影響し、印象派の画家たちが集まることになりました。
非常に美しい風景画です。
モネと印象派の誕生

1874年(明治7年)、とうとうその時が来ます。サロンとは別に展覧会を開催したのです。
そちに「印象派」と呼ばれるようになる彼らの作品は、当時社会一般的には受け入れられたとは言えません。しかし、記念すべき、歴史的な出来事でした。
「印象派」の由来となったのが、モネが出展した作品「印象・日の出」です。
照明の当て具合など展示の仕方がステキで、太陽が光を発しているような印象を受けたのを覚えている。
印象派展は8回開催されますが、その後メンバー間の方向性の相違などを理由に解体へと向かいます。
モネ、睡蓮と晩年

1880年代に入ると、モネはポワシーへと移り住みます。ノルマンディー地方への旅を経て、1883年(明治16年)にはセーヌ川沿いのジヴェルニーに転居します。
1886年(明治19年)にはアメリカにおいて印象派の展覧会が開催され、この時期からモネの収入に安定感が出てきます。
1890年代以降は「睡蓮」にまつわる作品を手掛けるようになります。
晩年には白内障による視力低下を患いましたが、手術を経てオランジュリー美術館に展示されることになる「睡蓮」の大装飾画の制作に邁進します。
光や大気、色彩に対する独自の表現を追求した画家モネは、1926年(大正15年・昭和元年)12月5日に亡くなりました。
なびさんぽで紹介しているモネの作品
これまで【なびさんぽ】でご紹介してきたクロード・モネの作品を、いくつかをご紹介します。

個人的には、「雪のアルジャントゥイユ」のような雰囲気の作品が大好きです。
雪景色が生まれ育った故郷(函館)を連想させるからだと思います。
寂しさも感じますが、私にとってはそれもひっくるめて魅力的です!

こんなに美しい雨の絵があるのだろうか?
と思えた「セーヌ河の朝、雨」という作品です。
幼い頃は雨が降ると長靴を履けるのではしゃいでいましたが、大人になると雨の楽しさやありがたさよりも憂うつな気持ちの方が強くなってしまいました。
この作品は、そんな負の感情を取っ払ってくれるような美しさを持っています。
モネの絵画には、心安らぐ作品が多いですね。
まとめ
- クロード・モネは、印象派を代表する画家のひとり。
- 印象派の由来は「印象、日の出」というモネの作品に由来している。
- 睡蓮の大作は有名。