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すぐわかる!チャイコフスキーとは|チャイコフスキーの生涯と代表作について

すぐわかる!チャイコフスキーとは
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ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーはロシアを代表する大作曲家です。

個人的には、ヴァイオリン協奏曲や序曲「1812年」などが大好きです。

ここではチャイコフスキーの生涯を、わかりやすくご紹介します。

チャイコフスキーの誕生~学生時代

ピアノ

1840年(天保11年)5月7日、ロシア(現在ロシア連邦共和国)・ウラル地方ヴォトキンスクで誕生しました。

ヴォトキンスクはウドムルト共和国の工業都市で、ウラル山脈の西側位置しています。18世紀中頃から冶金工場や鉄工所ができはじめ、現在の主力産業も金属工業です。チャイコフスキーの生家が残っていて、「チャイコフスキー博物館」として公開されています。

父親は鉱山技師を生業としていました。

家にはオーケストリオン(音楽の演奏機械)があったことから、幼い頃からモーツァルトやロッシーニなどの楽曲に触れていたようです。さらにチャイコフスキーが5歳になると、家庭教師のマリア・パリチコワによるピアノ・レッスンを受け始めることに。

しかし両親は、チャイコフスキーを音楽家ではなく法律家にしたかったようです。そのため1850年(嘉永3年)にチャイコフスキー(10歳)は、サンクトペテルブルクにある法律学校に入学しています。(本人も音楽家を志していたわけではありませんでした。)

その2年後の1852年(嘉永5年)には、チャイコフスキーの母親が40歳の若さで他界します。死因はコレラでした。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
母親の死は、幼いチャイコフスキーにとって大きな精神的ショックを与えたはずです。

その後まもなく、チャイコフスキーはオペラの作曲をイメージしたり、法律学校における聖歌隊に入るなど、音楽へと情熱を向けるようになりました。

1855年(安政2年)になると、ピアノと和声学を学び始めます。

チャイコフスキー、法律学校を卒業後、音楽を本気で学び始める

ロシア・サンクトペテルブルクの街並みロシア・サンクトペテルブルクの街並み

チャイコフスキーが法律学校を卒業したのは1859年(安政6年)のことです。就職先は法務省でした。

1861年(万延2年・文久元年)には、妹がウクライナのカーメンカの貴族と結婚します。チャイコフスキーはカーメンカがとても気に入っていたようで、1870年代には毎年のように訪れていました。

カーメンカでは、作曲活動も行なっていました。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
チャイコフスキーは妹と仲が良かったみたいだよ!

そんな彼の転機となったのが、1861年(万延2年・文久元年)に知人の紹介で帝室ロシア音楽協会について知ったことです。翌1862年(文久2年)には同音楽協会で、和声学、対位法学、作曲、編曲などを学び始めます。

チャイコフスキーが作曲や編曲を学んだのは、ロシアの作曲家・指揮者・ピアニストだったアントン・ルビンシテインのクラスでのことでした。

チャイコフスキーの学んだクラスは、ペテルブルク音楽院へと改編されます。ペテルブルク音楽院は、現在サンクトペテルブルクに本部を持つロシアの音楽大学です。

ニコライ・リムスキー=コルサコフが教授を勤めたこともあり、1944年(昭和19年)には「N・A・リムスキー=コルサコフ記念サンクトペテルブルク国立音楽院」と改名されています。

ペテルブルク音楽院が輩出した著名な音楽家(指揮者含む)をまとめますね。

  • ピョートル・チャイコフスキー
  • セルゲイ・プロコフィエフ
  • ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
  • ジョージ・バランシン
  • エフゲニー・ムラヴィンスキー
  • 西本智実

etc...

ペテルブルク音楽院で本格的に音楽を学んだチャイコフスキーは、1863年(文久3年)に法務省を辞めて音楽家へと転身したのでした。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
法務省の仕事を辞めて音楽家になるなんて、相当の覚悟が必要だっただろうな。

音楽家チャイコフスキーの歩みと代表作

ロシア・モスクワの街並みロシア・モスクワの街並み

音楽家としてはある意味回り道をしたともいえるチャイコフスキーが、最初に就いた仕事が家庭教師でした。おもに作曲、音楽理論、ピアノを教えていました。

1865年(元治2年・慶応元年)、ペテルブルク音楽院卒業後はモスクワに移り住みます。帝室ロシア音楽協会のモスクワ支部で音楽を教えていました。

同年、ニコライ・ルビンシテイン(アントン・ルビンシテインの弟)がモスクワ音楽院を創設します。現在は「チャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院」と呼ばれるこの音楽学校は、世界最高峰の音楽教育機関として知られています。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
モスクワ音楽院は世界三大音楽院のひとつなんだよ。
他の2校はジュリアード音楽院とパリ音楽院なんだ。

チャイコフスキーは、理論講師として約12年間教えていました。

翌1866年(慶応2年)は作曲家チャイコフスキーとしても記念すべき年で、次の曲が作曲されました。

  • 交響曲第1番「冬の日の幻想」作曲。【初演:1866年】
  • 歌劇「地方長官」作曲。

1868年(慶応4年・明治元年)には、ロシア5人組と呼ばれた次の音楽家と交友を深めたようです。

また、1868年を機にチャイコフスキーは新聞などのメディアに音楽の評論記事を出すこともありました。

1870年代になると、チャイコフスキーの代表作となる楽曲が完成し始めます。

1875年
(明治8年)
ピアノ協奏曲第1番 完成。
ドイツのピアニスト・ハンス・フォン・ビューローと指揮者ベンジャミン・ジョンソン・ラングによる初演で大成功。
1877年
(明治10年)
バレエ「白鳥の湖」完成。
歌劇「エフゲニー・オネーギン」完成。
1878年
(明治11年)
交響曲第4番 完成。
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 完成。

1877年(明治10年)、チャイコフスキーは結婚しますが悲しい結果となります。
このときの精神的ダメージは計り知れないほどで、チャイコフスキーを自殺を図るほどにまで追い込みました。

実は1876年(明治9年)から、鉄道経営者の未亡人ナジェジダ・フォン・メック夫人との交際がはじまっていました。
しかしその翌年に教え子に半ば強引に求婚され、結婚に至ったのでした。
ノイローゼになったチャイコフスキーは、わずか2ヶ月で結婚生活を終えています。

わたなびはじめ
わたなびはじめ
メック夫人とチャイコフスキーは一度も顔を合わせたことがなく、文通していたんだよ!

翌1878年(明治11年)、チャイコフスキーはモスクワ音楽院の講師の職を辞します。この選択は、作曲に専念することが目的でした。メック夫人からの金銭的な支援も、音楽に没頭できる大きな要因でした。

1880年
(明治13年)
弦楽セレナード完成。
序曲「1812年」完成。
1888年
(明治21年)
交響曲第5番 完成。
1889年
(明治22年)
バレエ「眠りの森の美女」完成。
1892年
(明治25年)
バレエ「くるみ割り人形」完成。
1893年
(明治26年)
交響曲第6番「悲愴」完成。

1893年(明治26年)には交響曲第6番「悲愴」が初演され、チャイコフスキー自身が指揮を行ないました。

それから10日も経たない11月6日、チャイコフスキーはサンクトペテルブルクにて亡くなりました。死因には諸説ありますが、コレラや肺水腫といった病死だと考えられています。

まとめ

チャイコフスキーとは
  1. チャイコフスキーはロシアを代表する大作曲家。
  2. 交響曲、バレエ音楽、序曲、協奏曲など有名な作品が多い。
  3. 交響曲第6番「悲愴」初演の数日後に急死。

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